五月二十五日という日は皆樣は御存知であろうか、この掲示板において記入しています。「楠木正成」の命日である。その同じ日に元号法制化を願って銃弾自殺を計られたのが「影山正治氏」であった。昭和54年であった。再掲させて戴きます。


 私は谷口雅春先生の愛国心というのは言葉に表せない究極の愛国心者であることは誰もが納得されることだと思います。しかし谷口輝子先生の愛国心はそれに同じであり、下記の文章は『理想世界』昭和五十四年八月号に掲載された文章ですが、それとともに『影山正治大人追悼集』五十五年五月二十五日発行にも掲載されている文章であります。

 

【影山正治氏は余程嬉しかったのか、死去された前年の十一月二十一日の落慶式のことを大東神社の鎮座祭で挨拶(五十四年四月一日)で云っておられる。是非ご拝読したい御文章です。

 

瑞玉串と捧げまつりて

      谷口輝子(生長の家谷口雅春総裁令室)

 

五月二十五目は、私にとって強烈なショックを二回受けた日であった。昼食を終へてテレビを見てゐると、婦人局長の田中さんより電話がはいった。

 

 「古川恵偉先生は只今十二時二十八分昇天されました……」

 

 

 悲しみを帯びた優しい声が私の耳を打った。私はかたはらにゐる夫に飛び付かんばかりにしてそのことを伝へた。

 

 前回の電話で田中局長は、

 

「昏睡状態の古川先生を、婦人局から浅村さんと石沢さんとが御見舞に和歌山市に伺ひましたところ、眼をつむって居られた古川先生に二人が『私たちの声が聴えたら、眼を開けて下さい』と申し上げましたら、古川先生は眼を開けられまして、涙を流されたさうでございます。昏睡からお覚めになったやうでございます」

 

 田中局長のうれしさうな声に私の心も明るくなった。私は西彼町の亀岳郵便局の速達受付時間に間に合ふやうにと、朝食をすますとすぐペンをとって、和歌山の中谷病院に入院中の古川さんに手紙を書いた。私は古川さんにまだまだ生きていて欲しかった。

 

 

「私より十歳若い貴女なれば、私より先きに死んではいけません……」

 

 などと激励のつもりで書いた。しかし、その手紙は朝の九時ごろ出したのだから、和歌山市の病院に着く前に、古川さんの訃報の電話が私を驚かしたのであった。

 

 そのおどろきの鎮らないうちに、また東京の和田理事長からの電話が、私に追ひうちをかけるやうに鳴り響いた。

 

 「奥様、大東塾の影山正治さんが、大東神社の境内で今朝割腹自殺をなさいました・・・・」

 

 その言葉こそ、古川さん以上に私は自分の耳を疑った。

 

 古川さんは昏睡状態だと聞いた時一度驚いてゐるので、もしやといふ思ひもあったが、影山さんの自決は「何故? 何故?」と解らなかった。

 

 翌る二十六目、東京から知らせて来たとて、ここの本山から持参された影山氏の遺書と辞世の歌を披いて見た。

 

 

 一死以て元号法制化の実現を黙祷しまつる

 

民族の本ついのちのふるさとへはやはやかへれ戦後日本よ

 

身一つをみづ玉串とささげまつり御代を祈らむみたまらとともに

 

 ああ、解った。影山さんらしい死であった。国民の大多数が元号の法制化を願ってゐるが、革新政党やキリスト教徒が反対してゐる現状であるが、近いうちに参議院でいづれかに決定することになってゐる。

 

 影山さんは、その決定前に死を急がれたのであらう。五月二十五目は、南朝の大忠臣楠木正行公のゆかりの日であるので、勤皇の志士の集団である大東塾では、その日は楠公祭日としてゐられると聞いてゐたが、永い間の念願の大東神社も四月落慶されたし、一身を元号法制化のために、みづ玉串として捧げるのに、好機到来といふわけだったであらう。

 

 しかし私は、立派な愛国者の一人を失ったことが惜しまれてならない。生きてゐて、祈って祈って、運動をしつづけて、あの熱誠あふれた文章や言論をもって、天皇国日本の実相顕現が確固たる姿となるために、働きつづけて欲しかった。

 

 三島由紀夫さんが割腹死された時も、私はその死が借しまれてならなかった。生きてゐて、その名筆をもって、日本の若者を赤化から引き戻して欲しかったと痛歎した。

 

 影山さんは、一時的の感情の昂奮で自決するやうな人ではないから、かねてから充分考へて、覚悟を定めての決行と察しられるが、去年の六月二十三日に、ここ長崎の私たち夫婦の住む家を訪れて下さり、次いで生長の家練成道場を訪ねて下さった、あの目の、元気な和やかな御顔が忘れられない。

 

あの日の影山さんは、三男正和さんをはじめ一行八入でやって来られた。私たち夫妻と一時間ばかり応接室で語り合ってゐた。お互ひの心を理解し合ってゐることは楽しいものである。胸襟を開いて笑顔で言葉を交してゐると、時間の経つのは瞬く間のやうであった。やがて私は御一行を案内して、建立中の住吉本宮へ御案内した。影山さんは「近いうちに自分の方でも建てようと考へてゐる神社の参考に」と言って、石段を上って扉の中まではいり、つぶさに内部まで拝見して居られた。

 

 ゆっくりと、つぶさに拝観を終られると、私は練成道場へ御案内した。私の案内を、老齢のゆゑにか、ひどく恐縮されて、「もう此処までで結構です」と言はれるので、私は道場の玄関前で別れの御挨拶をした。見送ってゐると、御一行はずんずん場内に入って行かれ、二階へ上って行かれた。私は一人で帰路についた。

ああ、あの時が、この世での永遠の別れだったとは誰が考へようか。

 

 大日本帝国が、惨めな敗戦の日を迎へてから十日目の八月二十五日であった。影山正治さんの父君影山庄平翁が、塾生とともに代々木原頭で十四名、皇居に向って割腹自殺を果された。戦ひつかれて、精神的に肉体的に疲弊困憊してゐだ日本全国の国民は、大きな衝撃を受けて奮ひ立った。女ながらも私は、あの時の昂奮はひどかった。

 

 「天皇陛下。臣らの力及ばずして敗戦に到らしめました。御詫び中上げ奉ります」

 

 といふ影山翁たちの意志表示たったやうに私は記憶してゐる。

 

 その時、長男の影山正治さんは戦地に居られたやうに記憶する。

 

 影山正治さんは国学院大学の学生時代に、父君影山庄平翁が生長の家に深い関心をもってしばしば谷口先生のことを語ってをられたので、それが縁で“生長の家”の思想にふれられたのだといふ。その後、どれほど“生長の家”への理解を深められたか知るよしもなかったが、後日、何かにつけて次第に接近して来て、天皇を尊敬し、目本の国体護持への熱い祈りに於いて、心を一つにすることが出来た。

 

 五十三年十一月二十一目であった。この日は午後二時より我が生長の家本山では神殿祭が挙行せられ、それが終ると引きつづいて鎮座祭が行じられて、めでたく国家鎮護を目的とする住吉本宮の落慶大祭は終った。

 午後四時四十分頃、私たちは本宮の顕斎殿より出て、新練成道場の大食堂に於ける祝賀パーティに出席した。

 

 空は晴れ渡り、その空を映した金龍湖の青い水の中を、色とりどりの錦鯉が泳ぎまはってゐた。四方の山々は緑の中に黄葉紅葉の色を織りまぜて、床しい錦をひろげてゐたし、広い境内の砂は白く清々しかった。

 

 招かれてパーティに集った人々の顔は喜びにほころびてゐた。古い信徒の人たちは、じっと見つめてゐると、あら、あの人は誰さんらしいといふほどに相貌の変ってゐる人も何人もあったが、誰も誰も、にこにこした顔ばかりであった。私たちのテーブルの左方には異民族のブラジル人が五十名ばかり、背丈が高くて色白の人、色の黒い人たちが、白い歯を見せてカメラを向けてゐる。

 

はるばると、わざわざブラジルより大祭に来られた人たちであった。

 和田理事長によって開会の辞が述べられ、副総裁の挨拶が終ると、私たち夫婦の手によって鏡開が行はれた。私たち夫婦は槌を手にして鏡を打った。

 

 この時、大東塾の塾長影山正治さんは祝辞を長々と述べられ、そして鄭重な感謝を捧げて下さった。言葉が終ると「乾盃っ」と大きな声で暖ばれた。

 

 場内いっぱいの男も女も、日本民族もブラジル民族も、アメリカ人、カナダ人も、一斉に盃もつ手を高々と挙げて、笑顔をほころばせて盃をかたむけた。

 乾盃し終ると、集った人々は海外代表の挨拶を熱心に傾聴したり、田村五郎君の詩吟にうっとりしたりしてゐたが、やがてあちこちのテーブルヘ散って行き、山海の珍味を珍しげに楽しげに箸にしてゐた。

 

 影山さんの音頭で、さまざまの民族が一斉に顔をほころばせて盃をあげた。

 

 ああ、それは、あの日一日のことではなく、今後の毎日の在り方であって欲しかった生き永らへて、もっと、もっと音頭をとりつづけてゐて欲しかった。

 

 今朝ほどの本山の良本総務の知らせでは、「『落慶式』の映画には、藤本刀匠のそばに、影山さんがハッキリ映って居ります」

 

 とのことであった。広島県の無形文化財である藤本昭さんは、住吉本宮の御神体である『護国の神剣』の制作者である。その人のそばにハッキリ影山さんが映ってゐるといふことは、偶然とは思へない、深い因縁を感じる。

 

 

  「元号法制化」が為されなかったならば、

 

 

  「天皇国日本」の形が崩潰に傾いて行くことを、愛国者たちは憂ふるのである。「天皇国日本」であることを無視して、キリストに関係のある西暦のみを用ゐようとする人々は、それは日本人の魂を失った人々だといへよう。

 

 影山さんは、天皇への忠の証として忠臣大楠公の命日五月二十五日、そして父君ら十四烈士の割腹の日二十五日に自決せられた。

 

 身一つを、みづ玉串として捧げまつられたやうだけれど、魂は十四の御霊らと協力して「元号法制化」の実現のために努力するつもりのやうに拝察する。

 

ああ、今頃は、十五の御霊は天翔けり、日本の空の暗雲を吹き払ってゐられるだらう。         (五月三十一目記す)

    ―『理想世界』昭和五十四年八月号に掲載-

 

『私の日本憲法論』には附録として「谷口憲法論に寄せられた識者の辞」があるのを御存知であろうか?

殆ど所持されているが、失くしてしまわれた人も多いのであろう。

 

そこで、茲に掲載致します。

 

谷口憲法論に寄せられた識者の辞

日本恢復悲願の書

東京水産大学教授                                 相 原 良 一

本年は明治元年よりかぞへて百一年で、満百年になるので、明治維新百年祭が朝野を挙げて祝はれる年である。この年の年頭に当って本書が刊行された意義はまことに深い。

 

 明治維新の幕は徳川幕府の大政奉還に続く王政復古の大号令によって切って落された。復古が即ち維新であった。「古」が「新」であるとは、言葉の上では矛盾であるが、それが矛盾でなく「我国未曾有ノ変革」として大いなる前進たり得た歴史の秘密は那辺に求められるか。大号令には「諸事 神武創業ノ始二原ツキ」とあって、過去三百年の幕藩体制はもとより、七百年の武家政治、更に千年の摂関政治をさへ否定して、天皇親政の我国の本来の面目に復り、はじめて、近代的統一国家形成へ大きく進み得たのである。「復古」は決して逆行や反動を意味するのではなく、かへって本然の姿に復るといふ意味で偉大な進歩であった。この故に「御一新」と呼ばれ「維新」といはれたのである。

 

 従って、大号令に続く「五箇条ノ御誓文」も、「版籍奉還」も「廃藩置県」も、すべて天皇といふ国の中心に帰一しまつるといふ尊皇の精神によって貫かれてゐた。維新の成果たる大日本帝国憲法もこれによって成立した。今日明治維新百年を祝ふ最大の意義は、この尊皇の伝統を復活強化するにある。

 

 本書『憲法の正しい理解』の刊行は、まさに、この要望に最も的確に応へるものである。けだし本書は、著者が「祖国を愛し、日本の将来を憂へて、目本の伝統的理想実現のために、憲法問題をいかに考へ、いかに対処すべきかを折々の問題をとらへて発表して来られた論文・檄文を編纂したもの」であるからである。

 

 しかも本書には、折々の論説の編纂にもかかはらずで一貫するものがある。

 

 ―それは真の日本恢復の悲願である。維新のための復古は、本書においては戦後二十余年の誤謬の是正であり大日本帝国憲法の復元である。ところで帝国憲法の復元といへば、多くの人々は今なほ反動と驚き、時代錯誤となすであらう。かういふ一般の人々の疑問に対して、著者は、多くの学者・評論家の論説を引きつつ、情理を尽して、懇切丁寧に説得される。

 

 維新の中心明治元年から二十二年にして憲法発布、翌年帝国議会開会即憲法実施、続いて教育勅語煥発が行はれた。丁度それと同じく、今日、戦後二十二年(昭和四十二年)にして紀元節の復活たる「建国記念の日」の制定を見、続いて明けた本年、明治維新百年祭を迎へる。

実に不思議な歴史の偶然といふものである。われらは、ここに「大二皇基ヲ振起」すベく、維新の結晶「大日本帝国憲法」に復帰するの道を開かねばならぬ。このためにこそ本書はひろく読まるべきであり、殊に若い人々の愛読を勧める

              (二六二八年立春の朝)

 いつかしきのりに復らでかりそめの安きを偸み移ろふべしや

(仮名遣原文のまま 「聖使命」紙昭和四十三年二月十一日号)

 

明智の洞察で示す

  日本国民の生きる道

ジャパンタイムズ論説顧問

   斎 藤   忠

 

憲法はいうまでもなく、国の基本法。したがって、憲法に問する問題は、国民をあげての最大の関心事であらねばならない、もとより、一部の憲法学者の論議にのみゆだねて設けることではない。

 

 まして、今日の日本国憲法というものは、第二次大戦における日本の敗戦にその淵源を持ち、戦後の特殊な国際的国内的事情の中にその出生を享けてきた。これが日本の命運にどのように重大な関連を持つかは、その制定の歴史的背景となった事情をあきらかにして、はじめて正確に理解し得ることであろう。

 

 日本国憲法というものの本質をあやまりなく理解し、評価することは、その条文や語句の解釈だけでできるはずのものではない。これを日本敗戦の歴史に照らし、これを戦後の現実の中に置き、その生成の事情を追い、その背景となった苛酷きわまりない占領政策の精神を究め得て、はじめて正しい把握は可能であろう。

 

 だが、そのような大局的把握は、識見一世を技く達人にして、はじめて為し得ることだ。今日の憲法を論ずる者、ただ条章の技術的解釈を事として、その制定の歴史的事情を忘却し、その占領統治要綱としての本質を看過する。日本国民の鍛大の不幸というべきであろう。

 

 今日、日本が直面する無数の難問題の多くが淵源するところは、実に、日本国民の持つ戦後憲法の本質に在る。日本の運命を救う道は、この憲法を改めるよりほかにはない。

 

 国政を担当する者にとって、何よりも心すべきは、この憲法の問題なのだ。本立って、末ははじめて定まる。国の基本法を正さずして、国政の混乱を救い、民族を守り得るはずがあろうか。

 

 今日、最大の急務は、国民大衆の前にこの憲法の本質をあきらかにし、これに対する国民の正しい理解をかち得ることだ。それは、そのままに、日本の正しい歩みを指示し、民族の興隆と真実の平和に通ずるであろう。

 

 谷口雅春先生の『憲法の正しい理解』は、その意味で、今日の日本が最も必要とする救国の論策である。われわれは、この著書の中に、はじめて、魂にふれ、心に訴える日本国憲法論を発見することができた。

 

 この一巻の著書をつらぬいて脈々として波打つものは、何ものにもわずらわされぬ明智の洞察だ。あくまでも正をふんで恐れぬ万夫不当の気魄だ。

 

 憲法すらも、すでに問題ではない。日本国憲法の主題を借りてここに昭々として示されるものは、日本国民の生きる道である。悠久の歳月にわたって承け伝えてきた祖国の「命」を千載に守りつらぬく道である。

 

    (「聖使命」紙 昭和四十三年四月一目号)

 

現代日本を救う名著

東京工業大学教授                            矢 島 釣 次

日の丸はファシズムにつらなるのだ、自衛隊は軍国化の橋頭堡だ、神話は国家権力増強の戦略だという議論が巷で常識論としてたたかわされ、角棒とヘルメットと催涙弾が毎日のように新聞記事の大見出しとなる。

 

 一方では知名人が汚職で豪壮な邸宅を背景に召喚されていく写真が大きくかかげられ、グループ・サウンズに若き女性の泣きわめくような嬌声がとぶ。

 

 老若男女を問わず、《亡国の民》と化す。優雅な自動車、色彩もあざやかなテレビ、グリーンの芝生を悠然とキャディーをしたがえて歩くゴルファー、これらのことは、うたかたの泡沫のごときものにすぎぬ。

 

 ドストエフスキーは暗い牢獄の中から絶叫した。《最後に只一つだけ教えてくれ! この世に神はあるのか、ないのかを!》

 

世の心ある人々は敗戦このかた間いつづけてきた。

 

 《最後に只一つだけ教えてくれ! この日本の人心の混迷を救う道はあるのか、ないのか!》と。

 

 どうすれば日本人に《祖国愛への回帰心》をいだかしめることが可能なのだろうか。この最も根源的な、しかもぎりぎりの問いにズバリ解答を与えてくれたのが本書『憲法の正しい理解』である。

 

 著者は全学連の行動にみられる心的動機を全面的には否定していない。むしろ羽田事件で暴走車の車輪の下で若い生命に終止符をうった山崎博昭君に慈母のような切切たる愛情をもつ。なぜ彼を死に追いやったか。純粋で秀才であるが故に、罪人の自覚を深刻にもち、《人間は努力するほかはない》、その努力の生活で罪を浄化するのが人間の《生》なのだと著者は山崎君の心情分析を、あくまでもあたたかい目で追跡する。

 

 だが、そこにはキルケゴールではないが、近代人の《病める魂》がある。罪の意識は今一段高められなければならぬ。罪意識の苦悩を克服して《人間本来神の子、罪なし、病いなし》の信仰的姿勢に至らねばならぬ。

 

 《家・郷土・国家》、この祖国という運命共同体は今や喪失されようとしている。各人が権利のみ主張してお互いに相にくみ、カー、クーラー、カラーテレビという唯物的三種の神器に生ける証を求めている。

 

 極度に内省化か要請されているときに、極度に外面的な物質を追い求めている。この根源の一切は《国民主権》という如何にももっともらしい麗句で装飾された《中心なき国家観形成の現行憲法》から発すると著者の口調は烈しい。

 

 愛とは与えることではない。愛とは支えることである。支えるとは、もし落ちるときには、ともに落ちる。そこには《捨身の行》かおる。与えるだけでは、真の行とはならぬ。なぜならば白他の間にある距離が存する。

 

 《支える愛》、これこそ真の愛、大愛というべきであり神愛というべきであろう。著者の説く《天皇の愛》とは、まさに《万民を支える愛》の具現者を意味する。

 

 されば、終戦に際して《自分の体はどうなっても、出来るだけ多くの国民に生き残ってもらって、日本国の再建につくしてもらいたい》と仰せられた日本の天皇に再び元首の座に帰していただき、《大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス》と定められた帝国憲法の有効なることを宣言公布すべきだと、著者はいろいろの角度から説いてつきるところがない。

 

 占領憲法を廃して明治憲法の復活を説くには、非常な勇気がいる。一億亡国の民と化した国土に立って、祖国愛への回帰心を切々と訴える本書は、真の目本の道を示す心の書とよぶべきであろう。

    (「聖使命」紙 昭和四十三年六月一目号)