私も含めて自重しなければならないことは、いくら「谷口雅春先生」の御著書を所持しているからといっても、それを何もしないで放置しているのは良くない。どうにかして、一般の人でも近くにいて見れるようにしなければならない。私はいつも思うのであるが、この時間だったら見せてあげるから来いというような高慢な考えが何処かにその人の頭のなかに潜んでいたら、それは間違いである。「社会事業団」だけではない、「学ぶ会」でもそうである。それを谷口雅春先生から預かっているという思いを持たなければならない。谷口雅春先生の御本を隠し持っていることをとても残念だと思われています。私も最終的には「国会図書館」に献本をするのだが、そうしなければ、何処かの団体で埋もれてしまう。最早谷口雅春先生の御本が世に出ることは無いとまで思っています。

 

大袈裟でもありません。実際、今日も出ていないではありませんか。復刻版もないではありませんか、教団の責任だけではない。私達一人一人の責任もあります。「聖典」と呼ばれるのは蒐集家の満足のものでしかない。ヤフオクなどで高値にて売買される。高額で当選した人がそれを紹介して発表などしたと云う話を聞いたことがない。ましてや、その眞理がその時代にどうして発表されたのかを検証した人などいない。そんな馬鹿な事があってたまりません。私もブログで書いてはいるものの、見ている人が少ない。

 

それと普通の人ならば、私の家に来いといっても、遠くて行けないと考えます。それをどうして「社会事業団」などは考えないのでしょうか?この時間に来いと書かれても、平日など行きようがない。相談にのると書いているが、行っても私は断られた。そんな薄情なことをしておいて、その言葉はおかしい。今はインタ-ネットの時代である。それをどうして利用しないのか不思議である。

 

以前に一燈園の香倉院にお邪魔させていただいたが、当日あいにく休館日であった。だが、別の係りの人が当直でおり、その係りの人は「遠くから来て頂いて、そのまま帰すのは申し訳ない」と云って、その館内や資料を見せて戴いた。

大変感激したのを憶えている。私はその謙虚さに申し訳なさに大変恐縮した。「生長の家」の人の幹部と云われる人の一部にはそういう観念がないのが残念である。

 

護法の天使さんが書いていた

谷口雅春先生の図書資料については現在国立国会図書館の収蔵数を超える保存数の専門図書館となっています。

 

私はその「谷口雅春先生」著作の国会図書館所有の所蔵数はとっくの昔に凌駕している。そんなのではない、あまりにも国会図書館の所蔵が少ないのに驚いたのである。昨年何冊かは献本した。それでも少ない。だが、私が全ての本を献本すればどうであろうかと考える。何れはまとめて、献本して国会図書館で所有となる。そのほうがはるかに人類光明化が出来る。そうであるならば地方からも見れます。遠くに行かなくても見れるのです。また今後の保存についても考えなければいけません。ちょうど国会図書館での保存法に参考にされたらいいと思いますが、ただ高額な出費が必要です。

国立国会図書館と資料保存 (ndl.go.jp)