■『谷口雅春先生著作年譜一覧表』の件ですが、本来なら既に発行していたのですが、発行すると云いながら次から次へと課題が見つかり、編集や校正などとともにその準備や別の発想が湧いたり、何をしているのだと自問自答しながら行っております。その作業は前進しているのか、それとも後退しているのかと問われれば、それもわからずに進行している時期もありました。作業途中に生長の家の愛国書というのはどういうものが聖典としてあったのかを探求しながら、脇道に反り、前段階では『宮崎白蓮、與謝野晶子、平塚らいてう等一流歌人などが挙って投稿した『白鳩』誌』の出版に付加するための資料探究等をしていたりした。

 また『聖光録』についての資料を探ったりして、その年代の違いなどを研究し、或る時は「光明思念の歌」についての正式な資料はあるのかを調べてゐたりしていたのですが、或る時は谷口雅春先生の旧制市岡中学時代、それでも何か物足りないものが心中にあったことは確かであった。それが何であるかも想像出来ないで、わからないでその時は進行していた。あれやこれやと思いつくまま、行っていました。それが、その物足りないものが、やはり戦後のGHQの検閲であった事なんです。戦前の検閲を詳細に書いておりながら、戦後になれば事実として知らしただけで内容の検証など全く行っていない

 

これは度々書いていますが、戦前の内務省の検閲はとことん追及して『生命の實相』黑布表紙版の比較検討を行いました。戦前の『生命の實相』黑布表紙版は改訂版とか記載されているものもほんの一部ありますが、ほとんど記載されていません。なかには初版として記載はあるが、発行日が違うのが多く存在して、内容までも変更しているものが二十巻全てに存在する。「生長の家」を邪教として扱った本を数冊見ましたが、どれもこれも確かめないで、決め付けているものばかりであります。

 

その内務省の検閲と邪教として圧迫されたときの思いとGHQ占領について当時の白鳩誌に谷口雅春先生は書いておられます。少し長い文章ですが引用させていただきます。《『白鳩』昭和二十一年三月號(敗戰の現實と今後の日本)P10P13

【『生命の實相』で、古事記に言及したところは何十分の一に過ぎないが、日本の敎も他敎の敎も同じ眞理だと示すために説いてある眞理は一つなのであります。ところが褊狹な日本主義者は中々一つにならうとしない。天照大神は日本獨特の特別に偉い神樣だと云ひ出した。そして『生長の家』が、『神は本來一つ』だと云ふ吾々に『皇室に對する不敬』だと云つて壓迫を加へたのであります。

これでは萬敎は一つにならない。どの宗敎も手を繫いで仲よくやらうと云つて實現した生長の家を彼等は邪敎だと云つて排斥したのであります。生長の家が『人間はみな神の子として無限の力を内部に包藏する』と云ひますと、彼らは『天皇のみが神の子である。國民のくせに神の子と自稱するのは不敬だ』と云ひ出した。吾々は苦しい辯解をして『天皇は神の親、吾々は神の子卽ち天皇の赤子である』と云ふことによつて彼らから不敬罪の告發を免れたのであります。併し彼らは吾々を『石にて打て』とは言はなかつたけれども、色々の迫害を加へ、言論を封じ、用紙を與へず、出版の自由さへ拒絶したのであります。

かゝる迫害の中にも原始基督敎の樣に今現に奇蹟が實現してゐる宗敎は生長の家のみであります。跛者は起上り、盲は眼を開き、脊髄カリエスは治り、そのほか醫者難治の病氣が續々として治つてゐる。その事實に對してもそれだけの實力を持つてゐる宗敎に對して、政府と結託したり、政府から手厚い保護を受けてゐる成宗敎團體からは、新興の宗敎にさう云ふ奇蹟があらはれては、成の老舗をもつた宗敎が衰へると云ふので、ジャ-ナリズムに資金を出して、吾々の宗敎運動を邪敎だと云ふ記事を執拗に書かせたのであります。『病氣の治る宗敎は邪敎だ』と彼らは呼號した。

 

 キリストも病氣を治した。釋尊も病氣を治したことがある。けれどもキリスト敎を邪敎と云はず、佛敎を邪敎と云はせないのは、自分がそれを職業として飯を食つてゐるからでありました。吾々は他の宗敎を排斥したことはなかつた。キリスト敎、釋迦の敎、古事記に説かれてゐる所の敎―――

 

それが全く一つであることを指摘して、天地一環の眞理を傳へんとして居つたのであります。それを擬似宗教だとか言つて成宗團からジャ-ナリズムは金を貰つて攻撃してをりました。疑似宗敎、類似宗敎が悪いのではありませんが、疑似と云ふと、疑似コレラ、疑似ペストなどと同じやうに、何かしら惡い感じを與へる。そこをつて彼らは吾々を排斥したのであります。

 

世界の宗敎は皆一つの『神』なる本源より發すると云ふ萬國の親善が宗敎を通じて自然に出來るやうな平和愛好の宗敎たる『生長の家』を反對に叩き伏せようとしたのが日本人であります。それは日本人の全部ではありませんが―――兎に角日本人は考へが小さかつたですね。自分より偉大なるものが出現しようとすると皆んなよつてたかつて叩き伏せようとする。そんな狭い考へでは日本は伸びることは出來ない。良きもの偉大なるものが出て來たら何所までも伸ばしてやらうと云ふ精神でなければよいものは出て來ないのであります。科學的發明にしてもさうです。原子爆弾若くはそれに對抗し得るものは又はもつと立派なものは、そんな狭い心では對に生れる譯はないのであります。キリストは『罪なき者先づ彼女をて』と言つた。そしてそこに跼くまつて地面に何か書かれたと云ふことが聖書に出てゐます。恐らく心の中では、『汝ら互に相愛せよ』と祈つて居られたのだらうと思ひます。『汝等互に相愛せよ』と云ふ言葉は『生命の實相』の巻頭にある「汝等天地一切のものと和解せよ」「和解するとは感謝し合ふと云ふことである」と云ふ敎と、全くひとつなのであります。こゝに生長の家の使命がある。

 

この平和の敎、和解の敎、親善の敎、感謝の敎でなければ日本を救ふことは出來ないと云ふ感を愈々深くするのであります。だから吾々はどうしてもどんなことしても、日本を救ふ爲に立上がらなければならないと思ふのであります。こんな狹い部屋だけで喋つてゐたのでは、こゝにゐる人にだけしか眞理を知らせることが出來ない。それでは不可ない。もつと多勢の人に知らせなければならない。

 

この生長の家の『和』の精神が政治の上にも持ち來たさなければならない。かう考へるのであります。言論の自由は聯合國司令部から與へられて居りますが、日本國内はまだ舊體制で、言論はまだ自由になつてゐません。それはある人の都合の好いことだけに自由であるかも知れませんが、『生長の家』などには少しも自由はない。

 

吾々の機關雜誌を出版するにしても紙の配給が一つもない。吾々が使つてゐる紙は、闇の紙ではない。それは光の紙であつて、配給所から丸公(※日中戦争下の価格等統制令および第二次大戦後の物価統制令による公定価格を示すの表示。また、その公定価格。)でやつてくる紙ではない。吾々が本を出すには、紙代がいくら、印刷代がいくらと云ふやうに算盤をはぢいて計算をして合理的計算の立つ過程に於ては決して引き受け手がないのであります。そこで雜誌を出すには、一切の費用を籠めて要るだけ支拂ふと云ふことにして、やつと出來る。その費用の中には倉庫から印刷屋へ印刷屋から製本屋へ用紙を運ぶトラック代なども法外な値段で入つてゐるのかも知れません。だから皆さんの所へゆく雜誌は非常に薄つぺらいで値段が高いけれども仕方がない。高い値段の用紙でも兎も角吾々の主張を實現させる爲に金錢のことは考へないで一句でも多くの眞理の言葉を載せたものは、一字千金の値打があると言ふ氣持でこんな薄つぺらな雜誌でも全力を擧げて光の言葉をそれに載せてゐるのであります。

 

吾々は公會堂で喋らうと思つても、なかなか公會堂の席は、空いて居りません。新聞に投書しても、共産黨の人の話は載つても、私のものは載せてくれません。皆没書です。私は共産黨の人よりも有名ではないのか、共産黨の人のやうに爭闘的精神を持たないで平和愛好的であるために、載せなくとも、尻をまくられる虞がないから、兎に角載せてくれません。ラジオの波にも載せてくれない。

 

併し吾々はもつと光明思想を全國に弘めねばならない。それでなければ日本を救ふことは出來ない。そう云ふ自覺を以つて、出來るだけ色々の方法を講じてゐるのであります。と云つて私は吾々を壓迫する人を責めようと云ふのではありません。さう云ふ吾々が人から責められ、壓迫される環境が出現するのはみんな自分の過去の他を責め壓迫した精神が環境にあらはれてゐるのだと觀じ、反省し懺悔しつゝ、出來るだけの努力を盡させて頂くのであります。】

 

■亀の子ブログにおいて「女系天皇」に就いて書いておられたが、谷口雅春先生は「男系」という書き方はその当時、その言葉も考えられなかった時代に、昭和21年『白鳩』誌に

【爰に日本には、天皇制護持の理由があるとして、何故現在の御血統の方が、天皇であられねばならないのかの問題が最後に殘る。それは二千六百年(或る人は六百年を減じて二千年だと云ふ)も血統連綿として、深き平和と尊貴の感情の中に生活し給うことにより、その御性格にも、その御態度にも、御容貌にも自ら尊嚴と平和とが備つてゐ給うことである。(中略)平和と慈愛と尊貴との感情の中にその生命を歷代二千年にわたつて育成せられ、その遺傳の渾然たる生成の中に、吾等人民の粗野性とは異なる高貴性を人格の中に備へ給ふのである。日本に於いては國家の尊嚴の具體的表現としては天皇の他に求むべくもないのである。ここに吾等は日本民族の特異性と、天皇の特異なる高貴の遺傳性とにより、天皇制を護持することが、日本再建上、日本民族に生命と理想とを吹き込む最善の道であることを信ずる。】

これを讀む限り、谷口雅春先生のお考えは「男系」であることは明白である。その言葉が“血統連綿として、深き平和と尊貴の中に生活し給うことにより”御血統というのは「男系」であるということである。

そういう「谷口雅春先生」の御文書を讀まずに「女系天皇」という考えは単純である。

 

■戦後に発行予定であった平和版『生命の實相』も断念せざるを得なかったと想像する。

また、戦前で使用されていた言葉の制限がありその数は多大である。勿論、戦後のGHQ政策の一貫として戦前の「大東亜戦争」「天皇陛下を尊崇」するような言葉も事細かに指令があり、使えなかった言葉も多い。その抑圧化のなかで『生命の實相』の戦後版の発行となった。

勿論、含まれている眞理には変更はないのは申し添えておこう。

  『生長の家』誌や『白鳩』『光の泉』等は検閲前と検閲後の文書がある。

 一部で所有されている戦後の雑誌は検閲後の雑誌であることは多くの人は承知されていない。何処をどのように変更されたのかは誰も探求して発表されていない分野である。私はプランゲ文庫のマイクロフィルム260巻の調査を行っている。二月の初めは大学入試試験の為、休館となっていた。現在230巻迄見てきた。内容は本当に腹立つ事ばかりで、何故日本が敗戦の憂き目でこんなこと遭わなければならないのか、怒りが収まらない。

 

■さて、私が投げ掛けた唱歌「紀元節」について、亀の子さんの深い洞察力と御判断に感心した。確かに作詞家の作詞された言葉と違うのを善しとして独断で判断するのは決して「善なる行為」ではない。そうした判断が過ちを犯しやすい。また立葵さんとの遣り取りは私にとっても勉強になりました。

 

■現在新編『生命の實相』のですが、編纂を行っていますが、何ヵ所か頭注版でも間違いがあります。人の呼び方の間違いや年代の齟齬等を私が調べても何ヵ所かあります。

ただ、それは大きく変更したりするのもいいのかどうかを最近の新編『生命の實相』の編集されている人は實に丁寧に見ておられます。私はそれだけでも新編『生命の實相』の讀む価値があると思っております。

實に微細なる言葉の文(あや)というのを見ておられるのには頭が下がる。私も戦前と戦後の比較をしなければ、そこまで見ていなかった。新調された新編『生命の實相』を頭注版と比較されればわかります。ここでは詳細は記述しないが、これを読まれている諸氏には是非確かめて戴きたい。勿論、断わっておくが章立て変更は良くないことである。人間というのは、これを善なる行いだと勝手に思い込むと、それを勝手に判断して、英雄気取りで変更してしまう。そうした「クセ」のようなものはベテランの人に多い。それが折角の新たな考えから疎外していることであることは本人は気が付かない。また、それに携わった人に聞かなければならない、いくら年が離れていても、自分よりは知っていると思う人には、聞かなければならない。そういう人は何故、聞いてくれないのか?と思っている。だが、意固地になり、そういう人は聞かない。信仰をしているのであろうか、意地が強いからであろうか、最後は自分の間違いだと神様は知らせるであろうが、その時は遅いのである。

 

但し「名称」「年代」「齟齬」の間違いなどとは異なる。それは変更しても善いであろうと思っています。それは過去の時代ではどうしても探れなかった文章や年代など「インターーネット」を使うことにより、新しい発見もできるわけですから、それを利用したり、『国会図書館』で公表されているものも最近では多くなってきておりますので、それを引用したりするのであります。何れはそういうことも発表しなければならないであろう。