今回の「本音の時代」さんは自分の意見を正統だと思って発言されていることです。それはそれでいいのではないかと思います。それを間違いだから相手に修正せよと強制し、その回答(実際は回答しているのですが)を引出そうとすることは倫理的に違うように思います。自分が間違いないと思えばそれでいいのではないかと思っています。しかもきちんと裏付もあるのです。

 

私が「破邪顕正」(ごめんなさい)さんと意見や言葉が違うから、それは違うからと意見を求めることは間違いです。ひょっとして自分が間違っていることも可能性もあるのですから、それは拝察して行うことだと思います。但し、私は何度「焚書」については過去にブログで説明している。

 

 

今回の事で考えたことは、私は一度も焚書した聖典を『生命の實相』に限定したこともない、「本音の時代」さんがそうだろうと推測して発言されていることだけです。

 

それと「焚書」については今迄、このブログで何度も説明しております。最初は「坑儒焚書」についてその歴史を説明しました。何回か書いていますのでまた是非見て下さい。

 また、雅宣氏からみたら「焼却」かもしれませんが、私達多くの信徒はその「歴史的背景」を知っています。  それを雅宣氏が信徒に明らかに読ませないようにする目的だから「焚書」でしょ。別に焼却されなくとも、そうした行為を「焚書」と呼ぶ人もいます。

 

 今回「焚書」とは焚くことですと「本音の時代」さんが発言されたので、実際焚いていますというコトバにカチンときたのではないかと推測しています。それで『生命の實相』を焚書にしているかという問いにちゃんと回答もしているが、ちゃんと理解されていなかったのは私の書き方がまずかったのではないかと思います。【この『古事記・日本書紀抜粋』は戦前の『生命の實相』の引用した文章であります。】ということでは納得出来なかったのでしょう。『生命の實相』というのは本の題名のものだけが『生命の實相』ではないことです。

 

昔の聖典には『生命の實相』の題名以外にも、そういう言葉が奥付に書いているものがある。

これは『生命の實相』の一部です。

 

それと、雅春先生の御写真をゴミ焼却場に放置していることは、『生命の實相』を蔑ろにしている他はない。赦されない行為です。

 

私の書き方もまずかったのではないかと反省しています。でも「焚書」は駄目だというのも自由ですから、それを強制することは致しません。だから、今回の件も自分が違う意見だから強制して回答を求めるような行為は慎まなければなりません。