今回、基本的神想觀について疑問があったのです。何を云っているんだと諸先輩方から叱られる様な言葉が出て来ますが、言い訳すれば私が「生長の家」を知ったのは小学生の「神童会」からで古いだけの人間です。そこでよく行ったのが、戦前の神想觀の実修なのです。

「合掌の手の先をアンテナにして」とか「七分ほど息をはいて」とかそういう言葉で行っておられる先生がほぼ全員でした。

 そこで質問なのですが、その戦前の実修した神想觀が下記の方に書いています。多分、気が付いておられると思いますが、「光明思念の歌」がないのです。「招神歌」を一度、稱えて終了です。この「光明思念の歌」というのが、いつから実施されるようになったか御存知の人がおられましたら、教えて下さい。

 或る方から戦前の「神想觀實修法」というコトバが書いているのを頂きまして、今まであまり気にとめることがなかった、光明思念の歌にフト、無いじゃないかと気が付いたのです。下記にそれを写したものがあります。

 

現在は

「基本的神想観」

吾れ今五官の世界を去って実相の世界に入る。此処がこのまま実相の世界である。

神の無限の智慧の海、神の無限の智慧の海、神の無限の智慧の海------

神の無限の愛の海、神の無限の愛の海、神の無限の愛の海------

神の無限の生命の海、神の無限の生命の海、神の無限の生命の海------

神の無限の供給の海、神の無限の供給の海、神の無限の供給の海------

神の無限の悦びの海、神の無限の悦びの海、神の無限の悦びの海------

神の無限の調和の海、神の無限の調和の海、神の無限の調和の海------

この大調和の実相の世界にいて、吾れ神の子として神より無限の生かす力の供給を受けつつあるのである。

 

(合掌より天降り来る神のいのちを、鼻より受けて吸い込む心持にて静かに息を吸う。息は吸気と共に頭上より脊柱に沿うて全身に流れ入り、全身が神の霊的生命より置き換わるが如き思いしつつ)

 

神の無限の生かす力自分の中に流れ入る流れ入る流れ入る------

 

(と念ずる。充分吸気したる時、その吸気を下腹に落し、。丹田に充実膨満の感を起し、その充実の感を、神のいのちに満たされていると観じ、静かに下腹に息を保ちたるまま)

 

満たされている。生かされている。満たされている。生かされている。ありがとうございます。ありがとうございます。------

 

(と念じ、全身神のいのちにて光明遍照せる様を心に描き、心の眼を以てそれを見詰めるつもりにて精神を統一し、呼気は吐かず自然に鼻より漏れ出ずるにまかす。自然に呼気が洩れて、吸気を催して来た頃息を吸う。吸う時の心持前述の通り。丹田充実、満たされ生かされている思念前同様。)

 

もはや吾れ生くるにあらず、神のいのちここにありて生くるなり。

 

(と念じ、以下順次繰返す------。)

 

 

戦前に於ては「基本的神想観」というものがなく、どのように神想観を実修されていたかと申しますと

 

「招神歌」の後

(次に大生命と自分との一體感を祈ります。)

 

生長の家を通じて働き給ふ神よ、此の合掌をアンテナとして大生命と一體にならしめ給へ、

 

(次に無限供給を默念致します。)

 

吾れ今五官の世界を去って實相の世界に居る、自分の今坐つてゐるのは實相の世界であつて、神の無限の智慧、無限の愛、無限の生命、無限の供給に充ち滿ちたる一切大調和の世界である、此の大調和の實相世界に居て、自分は今神の子として、神より無限の生かす力の供給を受けつゝあるのである。

 

かう念じながら本當に自分は今實相の世界に居て、神の無限の生かす力の供給を受けてゐると云ふ氣持になつて鼻から靜かに生氣を太く長く吸ひ込みます、空氣を吸ふと思はないで「神の無限の生かす力自分の中に流れ入る、流れ入る、流れ入る」と念じながら吸ひ込みます。

充分に生氣が這入りましたら、ミゾオチの邊りを少し引込めるやうにして生氣を下腹へ飮み込み落とします。―下腹の充ち滿ちた感じを利用して「神の無限の生かす力に充たされてゐる、生かされてゐる、滿たされてゐる。生かされてゐる。」と念じながら下腹に輕く力を保つやうにしてゐますと、自然に鼻から生氣が漏れて出ます、―七分通りの生氣が漏れ出てまだ三分の生氣が下腹に殘つてゐると云ふ時に、再び前の如く、「神の無限の生かす力自分の中に流れ入る、流れ入る、流れ入る」と念じながら靜かに生氣を吸ひ込みます、その生氣を下腹に飮み込み落として又、「神の無限の生かす力に充たされてゐる。生かされてゐる、滿たされてゐる、生かされてゐる。」と念じます。斯くの如く念じつづけつゝ呼吸すること約三十分、終りにも一度「招神歌」を稱へて一回の神想觀終了であります。