随分と年月は経ったが、以前に私は下記のように書いていた。

 

「学ぶ会」は私も創始から見ている。現在の形体は神奈川における実相塾が中心となり発展してきた。

しかし、一番最初の立ち上げたのが関西であったことは知られていない。

 

塚本幼稚園でのスタ-トであった。会場は立錐の余地もなく教室の外側で講演を聞く人もいた。私も当時雑誌『正論』のウェ-ブで知った。

 

懐かしいメンバ-もいた。その当時ですら40年ぶりという人にも会った。

それから、その塚本幼稚園や本住吉神社で講演会を開催した。しかし三回か四回の開催で私はその後参加しなくなった。

 

一緒に参加していた仲間と話して雰囲気が変わってしまったというのが参加しなくなった感想でした。

 

当時中島功先生や蒲田久子先生、菊池藤吉先生、仙頭泰先生などの講演であった。もちろん故人の方もいらしゃるが『谷口雅春先生学ぶ』の基盤となるべき人であった。

意外と関西では知られていないが、百地先生が最初の連絡場所であった。その後古賀さんに変わった。

また、宮澤様もこの『学ぶ』誌に執筆されていたことは遠い昔のようになってしまった。

 

創刊号の仙頭先生の言葉には小野泰博氏の著書に『谷口雅春とその時代』を引用して「谷口の思想や信仰に導かれて一生を送った人達は少なくない。そうでない人でも、谷口が広めるのに貢献したものごとの考え方、あるいは谷口が代表するような生き方・感じ方を説明すれば、何か身辺に思い当たる節があるのではなかろうか。

 そのように歴史上、重要な人物でありながら、谷口について論じた書物や論文はもことに微々たるものである。たとえば大本教の創始者の一人である出口王仁三郎について書かれたものと比べてみるとき、谷口に対する学問的な関心の低さはいぶかしさを通り越して、不可解である」と書いている。

 

何故、「谷口雅春先生」の評価は社会的に低いのであろうか。

谷口雅春先生の御教えで「救われ」「生き甲斐」を感じ、一生の糧として生きている人も多い。

 

この関西の兵庫の住吉から発祥した「生長の家」は立教当時は一大センセ-ションであった。書店にも並び、新聞広告に告知されそこからの奇蹟が続出し、瞬く間に全国を駆け抜けた。

 

「谷口に対する学問的な関心の低さはいぶかしさを通り越して、不可解である」私は実にその言葉に15年以上前に読んだ時に情けなく、申し訳なく哀しく思った。

 

私は『谷口雅春先生著作年譜』を書いたのもこうした言葉があったからこそです。「谷口雅春先生」を伝えよう、救われた人と共に伝えよう。

 

先日も皇道大本の入信のきっかけを作った『彗星』いう雑誌を見るために島根県立図書館へ行った。

大本にも6回行った。一燈園にも行った。

 

もう、こういう事を行うのは私が最後だ。自分自身で呟きながら自身を奮い立たせながら行った。

 

蒐集家は沢山いる。しかしここで協力を呼びかけて5名の人に協力を頂いた。そしてまだ未完成だがなんとか完成した。前に説明したが未完成というのは「新編 生命の實相」である。

 

今回、講演会を開催しようと決意したのが、埋もれた「生長の家」の人々に参加していただこう、関西の兵庫という発祥の地でそこが発展するのが何より嬉しい。今回は大阪で考えている。

 

現在「学ぶ会」だけではなく様々な団体が関西にはある。そうした人を結集するように皆さんの協力を得たいと思う。大阪、兵庫、京都、奈良、滋賀その他多くの人々を結集させるよう頑張って行こう。

 

 上記の小野氏に「生長の家」の学問的低さは”いぶかしさ”を感じると書いている。生長の家でこうした感情をもつ人は何人いるであろう。”いぶかしさ”を感じない人になろうとしているんではないか。そう自問自答する。

 

どうにかそうした生長の家により救われた「生長の家」の人々を沢山集めたい。

それには沢山の人の協力も必要である。

昔のように、誌友会や座談会、研修会、講話会と様々な名称もあるがいずれそうした発展に繋がることを望んでいる。

そのためにも”自分が”という「我」をすて、”あの人が”という「我」もすて仲間と協力していこうと感じている。

 

それならばきっと成功するであろう。そうした”受け皿”を作っていくのが私の役目のような気がする。

 

昔、谷口雅春先生の講演会が中之島中央公会堂で開催された時に立錐の余地もなく、演壇に人が座り「泪流しながら聞いている群衆もいた」そうした写真を見せていただいたことがある。比叡山延暦寺の5日間の講習会での写真も何枚か見せていただいたこともある。白黒の写真だが生き生きとした表情が垣間見れる。

 

上記のように書いている、それから年月を経て、現教団に少しの期待を持った人もいたが、悉く裏切られている。私は「生長の家」教団の衰退の原因もわかる。だが、その根本的な要因は過去に対して前向きに捉えようとする努力がなされていないことであろう。

 

宗教学者は「生長の家」を勉強出来ないのはその資料の乏しさにある。小野泰博氏の著書『谷口雅春とその時代』を紹介したが、私は小野泰博氏の学術的な視野と宗敎に対する碩学が著述させたことを感じる。小野氏は現在の京都府與謝野町に生まれて居られる。ここは郷土では古い習慣が今でも残っている地域である。その生れた與謝郡加悦町は丹後ちりめんで有名だが、風土も穏やかで情緒がある。そうしたなかでの宗教に対する真摯な取り組みが『谷口雅春とその時代』を書かせた所以であることをかんじます。

 

戦後GHQが「生長の家」に対しての検閲で日本的なる「神」に対する認識の浅さが、より厳しい弾圧となった。『宗教研究』91巻別冊で寺田喜朗氏が捉えている「本当の日本主義は八紘一宇主義だから一切を包容する精神」であるべき》と書いているが、こうした一部だけを引用するのは当時の生長の家を理解するのはそれだけでは難しい。また現在の感覺で物事を客観視するのは疑問を感じてならない。