これは今迄に何回か此処に記したであろうが、私がどうして『谷口雅春先生著作年譜一覧表』を作成しようと思ったのかといえば、そんなに大袈裟なことでなく、人の影響で『谷口雅春先生』の御著書を蒐集していた。大きな夢を持っているわけではなく、ただ何となくということである。だが蒐集して思ったのが、どのような本を発行されたのかが全くといっていいほど分からなかった。その当時はようやく見つけた『生長の家参拾年史』の後ろにある。著作集を写して、ノ-トに書き込んでいた。だが、戦時廉価版や戦時版や廉価版といった類が見つかると、『生長の家参拾年史』には掲載されていない本が沢山出てきた。

 

当時、青年会でも同じように蒐集していたO氏宅に訪問して聞きに行った。そうすると、余りにも私の所持しているのが、少なく何とか全般に亘って著作一覧表を作成出来ないかと鉛筆書きで記入していたものを、再び書き直した。私はこういう地道な趣味は好きではない。「釣り」や「麻雀」や「絵画」のような趣味は自分の性格に合っていない。細かい仕事や何年も懸って行う仕事など苦手である。だから中途半端なところがあり、自分でも出版したいとは全くその当時は思っていなかったし、大それた事も出来ない、矮小的な人間であった。勿論、「生長の家」教団では作成されているものだと思っていたのが大きな理由である。だから自分の趣味の範囲としておこなっていた。性格的にも長くコツコツとやる仕事は長続きしない。途中7年も蒐集しなかった時期もあるのだから、その証左であろう。

 

ただ、少し纏めてみようと軽い気持ちである。鉛筆書きで『谷口雅春先生著作年譜一覧表』を作成したのが、四十七年前である。鉛筆書きは一度全項目で書き直している。それからワ-プロなど出ていたが、それに書き写そうと挑戦したが、すぐに飽きてしまい断念した。

パソコンで書こうと思ったのも二十五年前である。それがある程度出来るまで三年程かかった。三年でA4サイズ約四十頁程度の著作集である。しかし友達にはこんなものは価値がないと云われた。書誌学を勉強しろと云われたのが、十七年前である。頁数はない、判サイズもない。こんなの趣味でもなんでもなかった。子供の悪戯書きのようなものであったと当時を振り返ると、我ながら赤面してしまう。

 

それから、少しずつ増やしていった。その私の著作集が私の全然知らない人に複写されて廻っていた。それには驚いたが、そういうことが縁となったりしていた。また再び私の知らない「谷口雅春先生」の著作を教えて頂いた。また永井古書店の存在は私の著作の大きな援護ともなった。その他四名の方の指導もあり、なんとか出版できる程度までは出来た。

四年前に出版しようと決意した。そうでないと話にならない。出版すると云いながら十年の歳月を経たが、A4サイズの198頁である。それから二年前に加筆して出版した三冊で総頁が570頁である。今回は800頁を超える本である。別途に120頁の本も出来た。

 

仕事もしないで一途に打ち込んできた、私はまだまだ満足などしていないが、我ながら「馬鹿」だなと思っている。仕事もしたいが、何しろ完成するまではと思っていた。蓄えも少なくなってきた。アルバイトをしないと悠々自適ではない私には荷が重い。それでも一年この事を行っていて止めたいなど思ったことがない。無償でやっているのだから、給与貰って光明化をしている人を羨ましく思ったりしたこともあった。本がないと購入したりするのであるから本当にお金が必要なんです。しかし、これから神様は屹度幸福にして下さると思って頑張ってしている。

 そうでないと気持も折れてしまいます。本来、世界聖典普及協会や日本教文社や教団本部や温故資料館の職員がしないといけない仕事です。そんな人が沢山の給与貰って何もしない。しかも、協力もしてくれない。なんでこんな事、私がやらなければならないのか・・・。社会事業団でも協力して呉れなかったのです。

 しかも、「あなたの貴重な資料、譲って下さい」と云われたのには、この人「生長の家」というより社会人として真っ当な人なのか疑った。

 だけど、そんな「社会事業団」だが、私は本が出来たら「謹呈」しようと思っている。そんな仕返しするような心は私自身したくない。愛情を持って接していきたい。「学ぶ会」にもそうしようと思っている。

 『生命の實相』のなかから沢山の引用もさせて頂いていますので、御礼だけはしたい。

 

私は掲示板で「マニアック」な人だとか云われたことも何回もあります。そういう人はそれでいいと思います。ほっといて欲しいと思っています。ただ一言だけ「貴方に谷口雅春先生の歴史を語れますか?」ということだけです。私は三時間でも四時間でも語れます。今すぐでも語れます。それが財産です。