ここ一箇月は“悪魔”を見ているようなそんな日々だった。私は通常通りこのブログを書いていたのだが、心の中では「醜い爭いの世界」に捲き込まれたくないという心情が強かった。

 組織の鉄則というのがある、弱肉強食の世界では相手が“弱り目に祟り目”の時こそ、対比する相手にとってはチャンス到来となる。相手を如何に引き下ろすかを徹底して、作戦して実行する。ライバルにとってはそれが、生き残れることであるからです。

 

 嫌だと思っても、そんな世界の「醜さ」のなかで生きている。世の中の「修行僧」と呼ばれる人でも、世を捨てて生活をしている人を知っている。その人をBさんとします。そのBさんは僅かな蓄えで、朝の三時には起床して大阪市東淀川区の住まいから箕面市にある勝尾寺の勝尾山手前まで自転車で通い、そこから山道を登りの時間が早いので最勝ヶ峰(開成皇子墓)の東側の磐座のような所でホラ貝を吹き、その後勝尾寺で読経して、昼からは天満駅のすぐ近くの天六商店街通りで読経しながら修行している。夜の10時に就寝に着く、春や秋には修行の爲に「大峰山」に登るという。修行生活に明け暮れ、家庭も持たない、一定の仕事もない。一度、その人から話を聞いたことがある。「人生が嫌になった」「人間関係で落ち込んだ」それが修行僧となった所以である。

 

 私はBさんを見ていて、「貴方の生活は、現在の社会生活より厳しい」それを敢て選択して修行に明け暮れている。半年前に天満で会った時には、吹田市千里山交番所襲撃事件で警官が刺された人が勝尾寺の参道に逃げ込んだ事件から勝尾寺には行っていないと云っていた。

 

 その勝尾寺の開祖である、開成皇子のことを思い出した。下記にウィキペディアから抜粋する。

 

開成(かいじょう、神亀元年(724年) - 天応元年104日(7811025日)は、奈良時代の僧。父は光仁天皇で、桓武天皇の庶兄。摂津国勝尾寺の開基と伝えられる。一般には開成皇子と称されることが多い。

 

765年(天平神護元年)宮中を出て勝尾山に入って禅居し、善仲・善算の二人の師に出会って出家・受戒した。両師の発願した大般若経書写の遺志を継ぎ、八幡大菩薩の加護を受けて6年の歳月をかけて完成させたという。勝尾山中にその経を安置する道場を建立し、弥勒寺(勝尾寺)と号したという。

 

781年(天応元年)に58歳で没し、摂津国の勝尾寺裏の最勝ヶ峰山頂(現・大阪府箕面市の明治の森箕面国定公園内)に葬られた。墓は現在「開成皇子墓」として宮内庁管理となっている。

 

 開成皇子の父は光仁天皇である。桓武天皇の庶兄と記入がある。腹ちがいの兄となる。

父は天智天皇皇子の志紀皇子の長男、白壁王で、幼い頃に母を亡くされ、父と共に飛鳥から奈良遷都には春日に移ってこられた。まもなく白壁王8歳の頃、父志紀(志貴)皇子が崩御された。その後、白壁王は奈良の山奥の田原の里で、野山を駆け巡って遊んでおられたが、22歳の頃に家に働いていた奴婢を孕まされた。生まれたのが開成皇子で、母はその後行方が分からなくなったが、開成皇子は9歳の頃天王寺に入寺して19歳で剃髪。20歳に摂津箕面の山奥勝尾山で山間修行中の善仲・善算について修行、受戒を受けて「開成」と名乗られた。その後箕面山中で修行すること十数年後の781年頃亡くなられた。

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 同じ皇子でも身分制度のため、泣く泣く、隠居となり山中で修行した。光仁天皇の皇子には

皇后:井上内親王(717-775 - 聖武天皇皇女

酒人内親王(754-829 - 桓武天皇妃

他戸親王(?-775 - 光仁天皇皇太子

皇太夫人:高野新笠(?-789 - 和乙継女

能登内親王(733-781 - 市原王室

山部親王(桓武天皇)(737-806

早良親王(750-785 - 桓武天皇皇太子

夫人:藤原産子(761-829 - 藤原百川女? または藤原楓麻呂女?

夫人:藤原曹司(758-793 - 藤原永手女

夫人:紀宮子 - 紀稲手女

宮人:尾張女王(?-804?- 湯原王女

田親王(751-781

宮人:県主島姫 - 県主毛人女

弥努摩内親王(?-810 - 神王室

女嬬:県犬養勇耳(または男耳)

広根諸勝

未詳

開成(724-781

 

以前に紹介した「早良親王」が皇子としている。

また、他戸親王(おさべしんのう)についてウィキペディアから抜粋します。

【やがて称徳天皇が崩御すると藤原氏は他戸王の父である白壁王を皇位継承者として擁立する。かくして宝亀元年(770年)に白壁王は即位して光仁天皇となったのである。翌宝亀2123日には他戸親王は光仁天皇の皇太子として立てられた。

 

ところが宝亀3年(772年)、突如母親である皇后の井上内親王が夫である天皇を呪ったという大逆のかどで皇后を廃され、527日にはこれに連座する形で他戸親王が皇太子を廃される。更に翌宝亀41019日には、同年1014日に薨去した難波内親王(光仁天皇の同母姉)を井上内親王が呪詛し殺害したという嫌疑が掛かり、他戸親王は母と共に庶人に落とされ、大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)没官の邸に幽閉され、やがて宝亀6年(775年)427日、幽閉先で母と共に急死する(この突然の死については暗殺説もある)。一連の事件は山部親王の立太子を支持していた藤原式家による他戸親王追い落としの陰謀であるとの見方が有力である。

 

かくして、山部親王が皇太子に立てられてやがて桓武天皇として即位するものの、他戸親王の死後には天変地異が相次ぎ、更に宝亀10年(779年)には周防国で親王の偽者が現れるなど、「他戸親王の怨霊」が光仁・桓武両朝を悩ませることになっていくのである。】

 

 この他戸親王の墓は奈良県の現在は五条市の柿畑の中にあります。その付近はちょうど御墓が立ち並んでおり、墓参りするようにして参拝致します。陵墓があると思えないような所にあり、北側には吉野川(紀ノ川)が流れている。

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桓武天皇の母親が高野新笠で、以前に上皇(明仁上皇陛下)が当時

天皇陛下

日本と韓国との人々の間には,古くから深い交流があったことは,日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や,招聘された人々によって,様々な文化や技術が伝えられました。宮内庁楽部の楽師の中には,当時の移住者の子孫で,代々楽師を務め,今も折々に雅楽を演奏している人があります。こうした文化や技術が,日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは,幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に,大きく寄与したことと思っています。私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く,この時以来,日本に五経博士が代々招聘されるようになりました。また,武寧王の子,聖明王は,日本に仏教を伝えたことで知られております。

 

 以前にあった『続日本記』に記載されていると書いておられた文章の桓武天皇の生母というのが「高野新笠」です。