私はこの生長の家掲示板が出来る最初から掲示板に書いて居りました。いわゆる「2ちゃんねる」という掲示板です。もう30年前になるのかとか、懐かしく思いながら、その時に答えていたことを再度記入したいと思います。

 

青年A

質問―①

生長の家の食事の神示(昭和5年11月4日)ですが時間と空間を超越している神が雅春氏にはついていながらどうして柳条湖事件が中国側の仕業などと誤った歴史認識をしてしまったのか?本当にこれらは神示なのか?雅春氏の捏造ではないのか?戦後の「日本の実相顕現の神示」には「戦争を始めたから敗けたのである」と書かれているがこの神示に従うと最終的に日本は負けなければならないということになる。人間の人権・生命にかかわる重大なことなのになぜ生長の家の大神は昭和5年の時点でそのような神示を下ろさなかったのか?時間の流れにそって時事問題について言う「神」は本当に「神」なのか?生長の家が戦争協力責任について未だ懺悔できない理由は「闇の前に、いたづらに、悪評する民衆の前に、罪を暴露しても何の効なし、闇に闇を照さしむるとも何の甲斐かあらん。」という「懺悔の神示」に原因がある。しかしこれ自体本当の神の神示なのか?無門関解釈の本にもあるように雅春氏が人殺しという人権蹂躙を美談と述べていることは決して神仏の御心にかなわない。これは慈悲深い者の言うことではない。的外れな回答ばかりしないではやく生長の家は懺悔しなさい。

 

回答-①

今回、説明が長くなりますがこれを答えないといけないようなんで鏤々、回答させて頂きます。さて、柳条湖(正式には柳条溝)事件の件ですが、これは約30年間の間、決着のつかぬまま昭和史の最大の謎とされていた事件なんです。昭和34年、日本国際政治学会に太平洋戦原因研究部が設置され、昭和初年から太平洋戦争勃発に至るまでの外交・軍事史に関する共同研究がスタ-トした。その成果は38年から「太平洋戦争の道」全8巻として朝日新聞社から刊行されたが柳条溝事件の部分は第13編「満州事変前史」で関寛治氏が執筆を担当した。川島正元大佐の証言や花谷証言などにより明らかになった。

 

今迄は第1巻上は柳条溝事件の発端について次のように記している。

「昭和6918日午後10時過、支那正規兵(兵力3~4百名)は突如柳条湖(原文のまま。奉天駅東北方約7粁半)付近満鉄本線を爆破するの暴挙を敢てせり。(秦郁彦 {昭和史を縦走する}を引用)つまり、昭和史の謎とされていた事件は昭和38年に正式に解明されたのである。また、日中戦争(全3巻。VOL①388頁  児島襄)では

場所は、奉天北郊の東北辺防軍第7旅が駐屯する北大営の西南約4百メ-トルの柳条溝付近。

使用爆薬は黄色方形爆薬。爆破担当は独立守備隊第二大隊第三中隊長川島正大尉であった。

爆破は918日午後1040分奉天着の急行列車の通過にあわせておこなわれたが、爆薬に誤算があったらしい。

計画では爆破で列車を転覆させる予定であったが、爆薬は炸裂したものの、線路の片側のレ-ルが吹き飛んだだけで、走ってきた列車はちょっと傾くと通過した。しかし、もともと線路爆破は行動発起のきっかけにすぎないので、川島中隊は「支那正規兵」が爆破して攻撃してきた、と報告するとともに北大営を攻撃した。

 

それではこの質問を具体的に日にちを追って見よう。

まず、雅春先生のこの神示は「心の法則と平和への道の神示」(昭和6530日夜神示)「秘められたる神示」による。その講義としてこの質問者は引用しているのである。P259行目からの文章である。つまり、この本の発刊日が昭和3611月8日である。

素直に解釈すれば、その少し前にこの分は書かれている。しかも、神示の講義なのである。

つまり、神示ではないのである。

次に、何故間違えたかは前述のように「満州事変」の正式解明は昭和38年の「太平洋戦争の道」により明らかとなったのである。

「雅春先生」は「満州事変史」(昭和10年、参謀本部編)を引用なされたのであって。

昭和36年では教科書でもそのように記していたので、一概に「雅春先生」の間違いと云うより、それまでの通史が「違って」いただけなのである。

追補

最近では御存知のように「コミンテル指令」という説も浮上しており、その後におきる中国の虐殺である「通州事件」で混沌としてきた。また列車の爆発した位置も問題になっており、未だに一発は中国とか日本とか意見がわかれています。しっかりとした歴史観で今後発表したいと思います。