この本はまだ読んでいないが、読んでみたいと思っている。それが『ある一生』である。
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産経新聞(327日 モンテ-ニュとの対話 「随想録」を読みながら)を見て読んでの感想であるが、人間というのは慾望の塊である。その「巨魁」という慾望に満足しても、満足というのがないほど欲求する動物である。権力を把持すれば、自分の慾を発揮して満足するが、そう云う場合に時として、他人に迷惑をかけることがある。前に「サル化した人間」として書いたが、理性のなき人間は動物と同じである。

その理性とは「智慧」であり、「生命」であると思う。しかし、時として人生は「荒波」の如く、人を貶めることがある。しかし、多くの人はその「荒波」に責任を転嫁して自己正当化する。

 

そこで慾望は羨望となり、いつまでも追い求めてしまうのである。しかし、その人には「その人にしか出来ない」大切なものがきっとある。それを見出したときその人は幸せだろう。

 

 

名もなき男の人生に感銘(産経新聞から抜粋)

 新型コロナ禍の日々が続く。前回も書いたことだが、自分が感染源となって他者を死に至らしめることだけは、なんとしても避けたい。特に感染しても症状が出ないか、軽くてすむと言われている若者に言いたい。たとえ大人が嫌いであっても、欲望に突き動かされた行動で感染し、結果として「世代間戦争」を引き起こすのは勘弁してほしい。お願いだから。

かくいう私は、休日は人混みを避け、庭仕事と読書と音楽鑑賞にいそしんでいる。先日は庭仕事のあとで以前から気になっていたある小説を手に取った。BGMはCD11枚組みで1500円という価格にひかれて数年前に購入したアントン・ブルックナーの交響曲全集。ロベルト・パーテルノストロという指揮者が、ドイツのロイトリングン・ヴュルテンベルク・フィルというオーケストラを振ったものだ。第4番から順番にかける。オーケストラは不器用だが、ブルックナーの素朴さをたっぷりと味わわせてくれるのでけっこう気に入っている。

 

 手に取った本は、オーストリアの作家、ローベルト・ゼータ-ラ-(1966年~)の『ある一生』(新潮社)だ。きっかけは昨年9月1日付の東京新聞に掲載された書評だった。評者はドイツ文学者にして名随筆家の池内紀さん。池内さんは掲載の2日前に亡くなっている。まるで置き土産である。「孤独な男の生涯 淡々と紡ぐ」という見出しの付いた書評は、こう締めくくられる。《あらゆる欲望装置のそろった現代にあって、すべて他人との比較でなりたつ社会にあって、このような孤独者の物語が成立するとは!》

 すぐにモンテーニュの言葉を思い起こした。

 

  《我々の欲望は、その手元にあるものには眼もくれず、それを飛び越えて自分が持たないものを追いかける》(第2巻第15章「我々の欲望は困難にあうと増加すること」)

 

 欲望は文明創造や世界を豊かにする経済活動のエンジンである。これなくしては何も生まれない。ただしもろ刃の剣だ。お釈迦様や孔子の時代、いやそれよりずっと昔から、欲望との付き合い方は、人類にとっての難問だった。はっきりと言えるのは、欲望だけに生きる者は、必ず欲望に裏切られ、下手をすると破滅する、ということだ。

 

 さて、『ある一生』はこんな物語だ。

 私生児として生まれたエッガーは母を亡くしたため1902年の夏、アルプス山麓の町で農場を経営する家に引き取られる。4歳だった。冷酷な養い親に酷使され、粗相をすると鞭でしたたかに打たれる日々。あるとき鞭は足の骨を砕き、エッガーは足を引きずる体になる。障害がありながらもたくましい男に育ったエッガーは、養い親の家を出て、森林限界のすぐ下にある小屋付きの土地を借りて自立した生活を始める。食堂で働く女に恋をし、自分の気持ちを山肌の火文字に託して求婚する。町はスキ-場開発で沸き立つ。ロープウエー建設会社に雇われたエッガーは黙々と仕事をする。だが、幸福な日々は長くは続かない。雪崩が小屋と妻をのみ込んでしまう。やがてヒトラーの戦争が始まる。エッガーはソ連に送られて捕虜となり、8年もの虜囚生活を送る。帰郷したエッガーはあらゆる半端仕事を請け負って暮らし。やがて山岳ガイドとして生計を立てる。79歳になったエッガーは、おおむね満足のいく人生だったと感じながら、自宅の小用で息を引き取る。

 

 名もなき男の淡々とした素朴な物語を読み終えたとき、言いようのない充足感に包まれ、気がつけば心は凪いでいた。このとき流れていたのは、第7番の第2楽章だった。

 2014年に刊行された本書は、ドイツ語圈で80万部を超えるベストセラーとなり、昨年6月に刊行された邦訳のこれまでの発行部数は5千部。新潮社宣伝部の吉川昌代さんによれば、海外文学業界内では「すごいね!」と言われる数字だという。

 

誰にも奪えぬそれぞれの瞬間

印象的な場面や言葉はいくつもある。たとえば、エッガーが牧草地に毛布を敷いてあおむけになり星空を眺める場面。著者はこう描く。

 (そんなとき、エッガーは自分の未来のことを考えた。なにひとつ期待していないからこそ、果てしなく遠くまで広がっている未来のことを》

 17歳で徴兵検査に呼び出されたおり、働き手を失うことを恐れた養い親が、強硬に異議を申し立てそれが認められたとき、エッガーは心の中で冷酷な養い親に感謝する。その理由を著者は次のように記す。

 《人生で失うものなどなかったが、それでも、人生からまだ得られるものはあると思っていたからだ》

 そして極めつきは、エッガーが生涯心に留めていた言葉である。

  《人の時間は買える。人の日々を盗むことはできるし、一生を奪うことだってできる。でもな、それぞれの瞬間だけは、ひとつたりとも奪うことはできない。そういうことだ。さあ、とっとと出て行ってくれ!》

 

結婚したエッガーは、妻を守るためにもっと仕事がほしいと、ロープウエー建設会社の部長に掛け合う。彼の仕事ぶりを熟知していた部長は、仕事を増やす代わりに時給を3割増しにすると返答し、そのうえで口にしたのが右の言葉だ。

 どんな人生であろうと、自分が主人公の美しい瞬間や歓喜の瞬間は数え切れぬほどあるはずだ。その瞬間瞬間を存分に味わうことができたなら、エッガーのように人生を振り返ることができるのだろう。それができないのは、欲望に起因する際限のない不満足感と将来への不安にさいなまれ、それを解消するために「いま」という貴重な時間を消費しているからだろう。

 欲望の自粛が求められるコロナ禍を、自身の欲望を見つめなおし洗いなおす機会にできればいいのだが。庭で中腰になって雑草を引いているとき、自分の尻と妻の尻がぶつかって互いにつんのめり、「ごめん」と言いながら笑い合った。こんな瞬間を大切にしながら生きてゆけたらいい。

 ※モンテーニュの引用は関根秀雄訳『モンテーニュ随想録』 (国書刊行会)による。(文化部 桑原聡)隔週掲載