私も知りませんでした、大阪城の本丸跡が明治時代に紀州城の二ノ丸御殿の一部が移築されていたことを…

 

大阪城観光ガイドから抜粋

旧第四司令部庁舎があり、西側には日本庭園があるこの広場が本丸と呼ばれる場所です。ここに江戸時代に本丸御殿、明治時代に紀州御殿がありました。

城の中心部を本丸と言い、大坂城の本丸には天守の他、政治を行うための御殿がありました。豊臣時代の本丸御殿は大坂夏の陣で焼失し、その後、徳川幕府によって本丸に盛り土をほどこし、再び築かれました。

 

幕末には十四代将軍徳川家茂が長州戦争の指揮をとるなど、重要な歴史の舞台にもなっています。

 

1868年(慶応四年=明治元年)、明治維新の動乱で本丸御殿は全焼し、明治18年、敷地に和歌山城二の丸御殿の一部が移築されましたが(紀州御殿)、これも1947年(昭和22年)に焼失しました。
紀州御殿
右にうっすらと見えるのが大阪城です。
手前が紀州御殿です。
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現在の大阪城
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参考:本丸御殿跡の説明文を一部抜粋し要約

 

天守の向かい側一体を本丸と言い、江戸時代に本丸御殿がありました。特に江戸時代1665年(寛文5年)徳川大坂城が落雷の為焼失したため、その後はずっとこの本丸御殿で政治を行っています。

 

幕末に新政府軍と旧幕府軍との間に戊辰戦争が起こり、本丸御殿は焼失しました。

 

その後本丸は何もない状態が続きますが、明治18年に和歌山城の紀州御殿の一部を移築します。これは紀州御殿と呼ばれていました。その後、残念ながら1947年(昭和22年)に紀州御殿も焼失し、現在の何もない状態になっています。

 

紀州御殿御座所の下の補足によると、明治天皇が大阪城を訪れた時に紀州御殿を行在所としています。

 

明治天皇は明治20年と明治31年の大阪行幸の際、大阪城に入り紀州御殿に宿泊していました。その時の御座所は第二次大戦終結まで保存されていたそうです。

 

現在、本丸跡には「明治天皇駐蹕之所」碑があります(上の写真参照)。駐蹕(ちゅうひつ)とは車を少し止めるという意味なので、紀州御殿に行在所として使用したことを意味します。

紀州御殿は天臨閣に改名

 

昭和6年に大阪城天守閣が復興し、第四師団司令部庁舎の完成以後に、紀州御殿は迎賓館として利用されました。

 

昭和天皇も紀州御殿を行在所とした時に、「天臨閣(てんりんかく)」という名前に改称されています。