谷口雅春先生は眞理と言うのは「何回も讀まなくてはならない」と繰り返して述べられておられます。

 若い時でもそうですが、一回讀めば理解しているのでもういいや、と自己の慾に限界を付けて、そこで閉じてしまう。私もその一人である。

 眞理と雖も二回讀むということは無かった。

「私は既に理解している」そういう増上慢があった。だが理解しているのは「その本を読んだ」ということだけで、内容について全く思い出せない。

 私は現在、微細にわたり『生命の實相』を讀んでいるが、全く新鮮で、今迄読んだことのないように新鮮である。それは過去では「読んだ」という自己満足だけが支配している胸中がそうさせているのです。

 しかし、「行」はどうかというと、全く怠っている。それでは、讀んでいないのと同じである。よく、私が発言する内容ですが、眞理はそうであっても現実はなかなかそういう訳にはいかない。とまるで悟り切ったような話をする。

 私は現在、そのような眞理と向き合うようにしている。二十歳代で讀んだ『生命の實相』と現在讀んでゐる『生命の實相』が全く異なった文章になるのが不思議である。

 二十歳代では「さっぱりわからなかった」言葉も理解出来るのである。その世代の様子が「ありありと理解」出来るのも年の功であるのか?

 本来は「現実」という私の言葉が「眞理」を阻害しているのです。「認めるものは顕れる」というのが感じられる。しかし、それではいけない。別に私は「現実逃避」する気持ちは全く持ち合わせていない。本来はそれがイコ-ルでなければならない。それを今後、行わなければいけないと思う。あまり屁理屈を付けていうことではないが、正直にそのように思える。

 

 先日來、このブログで「谷口雅春先生」の調べたい事が集まるものであるということで、『旧制市岡中学校』の資料や『變態心理』という資料など、谷口雅春先生の思想を知るが上にも大切な資料である。しかし、普段勉強していないと、そんな資料も「流れて」しまうのです。それをシッカリと握っていくのもあらゆるものに「アンテナ」を受ける準備をしておかなければならない。そこで「何か」を感じるのが「大切な」ことであると私は思っています。それは決して自分一人の作業ではなく、沢山の人々の補助があるから出来るのです。

 

 そのような人にいつも感謝をしている。私はそのような人に「恩返し」をしようといつも思っている。

 今回、『學生生活』という資料も本来「生長の家」と何等関係ないと思うのが普通であるが、私は「これは間違いなく関係する」という断言が心の中であった。それはこのような『谷口雅春先生』の歴史を深く調べて行くと、「理解」が出来るのです。

 本当に神様に感謝しなければならない。