下記の投稿を“視て”どのように思うのであろうか?

通常ならば“見て”と書くのであろうが、今回は敢て、この字にしました。

 さて、その投稿というのが

 

大聖典も只の古書 トキさんが買ってあげたら (22753)

日時:20200202 () 1609

名前:どうでもいいですが

信徒の子孫にとって「大聖典」と仰々しい名のついたものでも、大した価値あるものと認められないと云うことでしょう。

 

日常読むための真理の書と云うよりも、飾って置くものとしての価値を高めるために、大層な装丁のものを売り出したと云うことでしょう。

 

雅春先生は付加価値の付け方が商売上手であったようです。

 

『生命の實相』大聖典はここで書かれているような、野暮ったいものでもないし、商売上手とかでもない。この人は“全く勉強をしたことがない”からこそ云えるのであろう。どれ程の苦労をされて作られたかを…、またどれ程の價値があったかを知ることもないだろう。

 

 以前にも書いたが「ある団体」に訪問した時の衝撃的シ-ンでしたが、誰も居ない机に無造作に開かれており、使いまわしのような状態で『生命の實相』大聖典が開かれて置かれていた。

 

 果して何をしたいのか、日頃は「谷口雅春先生」と口にする。人を結構批判している。そんな団体の本部がこんな状態でしたら、本当に情けない限りでした。

 

 しかし、よく考えれば、この人の云っていることも“合致”するところもある。殆どの人は『生命の實相』大聖典は飾り物でしかない。本当にそれでいいのかである。黑布表紙版との違いや菊装版では大聖典の縮尺版との記入があるが、果たしてそうだろうか?一言一句変更なしなのか、もし変更されているとしたら、どうして変更したのかである。また、已む無く記載されなかった「神示」です。何故、記載されなかったのかです。そんなことも検証すら出来ていない。

 

 今後、私が大きく「検証」する内容です。それは「神示」と合わせて検証することとなります。“個人”“団体”の所有されている『生命の實相』大聖典は飾り物の價値しかない。こんなことで本当にいいのであろうか?