先日、《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》で「笑い神事」の件で書かれていましたが、枚岡神社はふとん太鼓で有名な神社です。以前に勤めていた会社である一人が「枚岡神社」の付近に住んでいたのですが、その時は会社を休んで行事に参加します。IMG_3585

https://www.youtube.com/watch?v=WUz5eWHKCuA

 

この付近は大阪では中河内です。河内地区は全体的に神輿行事が盛んな地域で以前に四条畷付近(北河内)でも勇壮な神輿が出ていました。南河内は河内音頭で有名な八尾市とかがあります。

 
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 さて、「笑いの神事」は有名な事で、その夜には「天の岩戸開き神事」を今年から開催されるようになったようです。

 そんな枚岡神社は幾度となく横の道を車で通ったり、全国的に有名な「308号線」の国道があり、その有名な国道は「酷道」ともよばれ、急斜面です。そこも何回か脚を鍛えるために通りました。本来は暗峠奈良街道ともよばれており、私達は単に暗峠(くらがりとおげ)と讀んでゐました。随分昔に車で通ったときに、大変だった思い出がありました。現在以上に道幅が狭く、対向車が来たときは悩むほどでした。少しだけ広くなっていましたが、その急坂は一度歩いたらわかります。

 

日時:20191223 () 2105

名前:下総の野人

大阪府東大阪市の枚岡神社で通称「お笑い神事」という祭儀が行われたそうです。天岩戸隠れの神話に由来するとか。

 

谷口雅春先生のみ教えを受けた私たちにとって「笑い」の行事は身近ですが、古くからの伝統行事にもあるんですね。興味深く思ったことでした。

 

「かけだし鬼女の今が日本の一大事! ~よければ一緒に凸しよう!~」から抜粋致します。

子供だった昭和40年代(1965~1974)自宅玄関の壁には国旗立て金具が付いていた。

 国民の祝日にはそこに国旗(日の丸)が立てられた。隣近所も大抵国旗を玄関に立てていた。

 今ではあまり見かけない。そんな中、大阪府東大阪市の枚岡神社が昨年の東日本大震災後、

 「祝日に国旗を掲げましょう」という活動を始め、氏子地域の東大阪市松原自治会では約150軒が

祝日に国旗を掲げる。枚岡神社の中東弘(なかひがし・ひろし)宮司(71)は

「せめて祝日には国旗を掲げ、日本の歴史と文化を見つめ直していただきたい。

それが日本人の絆にもなる」と話している。

 国旗掲揚活動のきっかけは昨年3月11日発生の東日本大震災だった。

たまたま中東宮司は所用で上京していた。地震発生後、電車は全線不通となり、

いつ来るのかわからないタクシー乗り場も長蛇の列ができていた。

 寒風の中、ひたすらさまよい歩き、なんとかホテルを探し当てた。

 何度も余震が続く中、ホテルのテレビには、津波によって家屋や車がまるで玩具のように壊れ、

 流されていく姿が繰り返し映し出され、絶句した。

 「被災した方には申し訳ないが、震災を通じてある“気付き”をした。いかに日本人が傲慢になっていたか。

 自然に対していかに無力であるか」反省のいい機会だったと中東宮司は振り返る。

そして、震災を通じてのもう一つの反省が「国を思う」ということ。

 祝日に国旗を掲げる家などほとんどない現状。

 「この国難を乗り越え、復興するには、日本人の心を一つにすることができる国旗掲揚が必要だ」

という考えに至ったという。

 地元・松原自治会が呼応

 中東宮司の国旗掲揚の呼びかけに応じたのは氏子総代の一人、松原功典さん(79)だった。

 松原さんは昨年10月中旬、松原自治会(約450世帯)の役員会で国旗掲揚を提案した。

 役員からは「大賛成」「掲げるべきだ」という前向きな意見が相次ぎ「やろう」ということになった。

 松原自治会は近鉄花園ラグビー場北側の旧伊勢街道沿いで、松原さんは自治会員宅を一軒一軒回り、

 理解を求めた。そして、初めての祝日となった昨年11月3日の「文化の日」多くの国旗が玄関前に掲げられた。

 今では自治会員宅約150軒が祝日に国旗を掲げるまでになったという。

 「若い世帯も多く、国旗掲揚に問題がないわけではない。しかし、今後も理解を求め、

 半分ぐらいの自治会員の家に国旗が掲げられるようにしたい」と松原さんは話す。

 高まる掲揚の機運

 国旗掲揚の動きは松原自治会にとどまっていない。

 「祝日に国旗を掲げようという機運が高まり、近隣の自治会にもどんどん広がっている」

 松原さんはいう。祝日には各家の玄関前に国旗が掲げられ、町中に日の丸がはためく。

 40年ほど前には当たり前だったそんな風景を再び目にすることができるのだろうか。

 「松原地区はもともと歴史のある町。誇りある日本の国づくりを再び松原地区から日本中に広げていきたい」

と松原さんは意気込んでいる。

 「来年を境に世の中はいい方向に進む。日本人の心の転換期にもなる。

その流れに乗って多くの人が国を思い、国旗掲揚も広がりをみせるに違いない」中東宮司も期待している。

 

国旗「日の丸」について(国旗制定記念日の栞より)

  わたしたち日本人の生活は、自然に対し畏敬の念と感謝の気持ちを抱きながら、自然と共に生きる努力をしてきました。そして、人間のみならず、万物を育み生成する太陽(日)の光を敬愛する気持ちは、なお一層のものがあったと思われます。わたくしたちの国旗、「日の丸」は、この明るく輝き昇る太陽をかたちどったものであります。

  『続日本紀』という古い書物に、「日象」(日像)の文字がすでにみえ〔大宝元年(701年)〕、その後、歴代天皇、諸国大名によって太陽をかたちどった旗が盛んに用いられてきました。外国との接渉がさかんになる江戸末期から国旗としての性格が明瞭に意識され、安政元年(1854年)には「日の丸」が日本総船印として江戸幕府より各大名に布告されました。また万延元年(1860年)には、勝海舟を艦長とする咸臨丸により初めて「日の丸」が海を渡り、そのアメリカにおいても「旭章旗」(日の丸)によって日本の遣米使節団を歓迎し、その時交わされた条約の批准書交換式後、記念に双方から「国旗」の交換がおこなわれました。

  明治の御代になり日本は世界の仲間に入る新しい時代を迎え、明治3年(1870年)1月27日、「日の丸」の旗は日本の国旗として定められ、世界の国々からも認められるようになりました。

  日出ずる国― 古くから日本の姿をこう呼んでいました。そのように朝日が輝き昇る朱赤(国民の熱誠と国家のエネルギー)の姿を白地(正義・平和・純潔・中正・不偏)の中央に表したものが「日の丸」であります。また、日本人が古へより尊んできた「和」の精神、始まりも終わりもない円満・平和をあらわし、大自然の摂理のように道理に円く融けあった生活を目標とした日本人の心の表象であるといえましょう。

  わたくしたちの国旗「日の丸」はこのように長い間つちかわれてきた民族の思想と歴史からできあがったのです。

  そして世界のどの国にも国旗があり、その国の思想や伝統的な文化、民族の使命等が托され表現されています。自分の国の国旗を大切にするとともに他の国々の国旗も心から尊重し、国際理解と協調共存につとめましょう。

 

 

 国旗授与しています。ご希望の方は神社社務所までお申し出下さい。

 国旗セット…1,600円(1セット)です。

 

https://www.sankei.com/life/news/130127/lif1301270032-n1.html