陵墓というのは全国各地にありますが、江戸時代でもそうですが、多くの天皇には中宮というのは皇后ですが、典侍(ないしのすけ/てんじ)と侍女という形式で沢山の皇子や皇女がおられます。掌侍(ないしのじょう)とは、律令制における女官の1つ。

場所は

604-8031 京都府京都市中京区大黒町河原町通三条下る39

誓願寺墓地内

https://www.google.co.jp/maps/dir/35.0083315,135.7686132//@35.0083635,135.768537,20z/data=!4m2!4m1!3e2

 
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霊元天皇皇子 力宮墓

霊元天皇 掌侍:源(東久世)博子(源中将局)(1672-1752 - 東久世通廉女の第十二皇子という記載だけで詳細はわかりません。当時は宮という言葉が皇子に使用されています。

1697という記載だけですので幼児にてお亡くなりになられたことがわかります。
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中御門天皇皇女 女五宮墓 第十二皇子:力宮(1697)

典侍:藤原(園)常子(新典侍局?-1763 - 園基勝女 第三皇子:忠誉法親王(忠篤親王、1722-1788 - 聖護院

第三皇女:五宮(清浄法院、1724-1725

生れて一歳でお亡くなりになられました。
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当墓地は私は知らないでそのまま入りましたが、許可を必ず取って下さい。

604-8035 京都府京都市中京区桜之町450 誓願寺社務所

 

この墓には山脇東洋の墓がある、日本で最初に人体解剖した人である。

この場所の近くの五條大橋は昔から「さらし首」や「刑場」の場所として有名である。あの石川五右衛門もこの場所でさらし首となった。

沢山の人が処刑された所である。そうした死体は医学にとって大切であった。

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ウィキペディアから抜粋

山脇 東洋(やまわきとうよう、宝永21218日(170621日)- 宝暦1288日(1762925日))は、江戸時代の医学者。実験医学先駆者の一人。東洋は後の号で、はじめは移山。名は尚徳、字は玄飛、子飛。子に山脇東門、門下に永富独嘯庵らがいる。

丹波国亀山に生まれる。医家清水家の生まれで、享保11年(1726年)に父が門下の法眼山脇家の養子となる。1729年には家督を相続して法眼となる。後藤艮山から、理論よりも実践を重視する古医方を学び、延享3年(1746年)には唐代の医学書『外台秘要方』を復刻。

 

カワウソの解剖から陰陽五行説に基づく人体の内景に疑問を抱き、宝暦4年(1754年)閏2月、京都所司代の許可を得て死刑囚の腑分けに立会い、観察記録を行う。宝暦9年(1759年)にはその成果を解剖図録『蔵志』として刊行。漢方医による五臓六腑説など、身体機能認識の誤謬を指摘した。

 

吉益東洞ら古医方においても人体解剖には抵抗が強かったため批判を浴びるが、国内初の人体解剖は蘭書の正確性を証明し、医学界に大きな影響を与える。東洋の影響を受け、江戸では杉田玄白、前野良沢らがより正確性の高いオランダ医学書の翻訳に着手する。日本医学の近代化に大きく貢献した人物である。