自分には「覚悟」という思いがあるのであろうか、最近「小田村寅二郎」氏の関係で本を読み言葉にふれる度にその思いが強くなる。私はその覚悟から逃げたい。出来れば穏便に済ませたい。一つのグル-プで仲良くしたい。この優しい環境から脱走したくない。そんな「甘言」が頭を過ることがある。負けまいと思うが、何のために、こんな作業を行っているんだろうかと「弱気の虫」がでてしまう。

 

そんな気持ちにどうしてもなってしまう。弱い自分を出してしまいたい。強がりは何ぞ!

 

総合雑誌『いのち』を読んでいる時に、ふとそのような思いが脳裏を掠めた。小田村寅二郎氏は東京大学在学中に『いのち』に寄稿して、「東大法學部に於ける講義と學生思想生活」という題である。当時の矢部貞治助教授の講義内容を巡るいわゆる小田村事件が起こり、寅二郎は無期停学、退学処分となった。そこで「退学処分」になっても、傳えるべきものというのがあるのかである。「覚悟」というのはあるのかどうかと考えてしまうのである。

 

他人事であれば好き勝手なことが発言できるが、自分の「学生」や「会社」「事業」などを捨ててでも、行うことが決心できるかどうかである。多くの人は少しでも我慢して「流れ」に漂いながら、運命を切り開くことせずに惰性で世の中を送ろうとしてしまっている。

 

私はそこで感じるのは「覚悟」という言葉である。その「覚悟」に迫力があるかということを感じてしまう。今回、自分の生活をかけての「覚悟」というのが、私にはあるのかどうかが試されているように思っている。谷口雅春先生がどのように『生命の實相』をお書きになられたのか、立教前の論文や、立教後の『生長の家』誌に掲載されたもの、『生命の實相』の主要な論文はヴァキュ-ムオイルカンパニーでお勤めされながら、執筆されたものである。またその多くの「神示」というのは、神戸にてお住まいされている時に啓示を受けられたものです。努めながら、雑誌を執筆し、個人指導をし、一人で校正を行い。印刷での何度となく通われ、そして、雑誌の送付と私では考えられない縦横無尽に行われた。「生長の家」を発足して、世の中に爲に成る、人類を救いたいという発願はお亡くなられるまでその意志を通された。

 

『生長の家』信徒でも、歴史を勉強するようなことは、今は殆ど無くなってしまっている。私はそれを一つづつ手繰り寄せるような気持で活動している。自分で行動して、『谷口雅春先生著作年譜一覧表』を書いている。いつも、これでお終いという言葉がない。なかなか宿題も多くあり、現在は『生命の實相』の比較検討を行っている。そのことは前回のブログで書いたが、その量は半端ではないことに気が付いた。悪戦苦闘している。

 

『生命の實相』の黑布表紙版について“理解”していただいている人は三名おられます。それ以外の人は理解していないという意味ではありません。色々な分野で助言を頂いたりしています。なんとか、あと数か月、決して最終版ではないが書いていこう。