大阪には『その昔、大阪の町の周辺に『大坂七墓』という古いお墓がありました。大坂七墓とは「濱」、「梅田」、「葭原」、「千日」、「蒲生」、「鳶田」、「小橋」の7つといわれています。大阪七墓

 

その内のなかに「原」というのは名前とその周辺までは知っていた、場所は天六の駅の近くということまでです。今回はそれが目的ではなかったが、偶然に通りがかりに発見した。IMG_3152IMG_3151
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  名前は「葭原(よしはら)」福島区に蘆分という地名があるが、昔は海沿いにあり、蘆が多く産出していた地域であったという。そういえば「濱」という地名もそうである。以前にも書いたが

【豊崎1丁目2番地にある南浜墓地は昔、濱の墓と呼ばれていました。】

もちろん奈良時代ではここが大阪湾の入口であったことが名称でわかります。同じように「葭原」もそうです。そこに「沖向地蔵」というのがあったという。それが上記の寫眞である。

 

 その『大阪七墓』を江戸時代の貞享、元禄の昔から明治初期に至るまで、盂蘭盆(うらぼん)になると、七墓巡りと称して、7ケ所のお墓を参る習慣があったそうです。

由緒書には

【由緒書き 『沖向地蔵尊由来』

 

西暦645年大化の改新が行われ、都が難波長柄豊崎に移され、色々の改革が着々と進んでいた頃、行基菩薩 (668-749)は大阪の南から北にかけて七カ所の墓地を作り、大阪七墓と称された。そのうちの1つが天満葭原のこの地の墓地であった。こののち法然(1133-1212)によって開かれた浄土宗ではこの墓地を守るため西の坊というお寺を建立した。その当時この付近は大阪湾の海岸線に近く、葭(葦)の生い茂る地帯で、この通りも昭和の末期(1980-1990)までは葭原(吉原)通りと呼ばれていた。このお寺にこの地蔵尊 阿弥陀如来、勢至菩薩が併祀された。その後海岸線は土砂も堆積し、近代は盛んに埋め立てもされ、建物も多く建って、現在ではとても海は見えないが、当時はお地蔵様の正面、西の方に海を見渡すことが出来たので、沖向地蔵尊と呼ばれるようになった由である。

 大正10(1921) 大阪市がこの地に北市民館を建設するに当たり、この墓地は 現在の長柄墓地に移転されこの地蔵尊の堂宇のみ残された。10世紀に亘る度々の淀川の氾濫、最近では明治18(1885)の大洪水にも耐え、さらに昭和20(1945)3月の大阪大空襲にも付近一帯焼夷弾による大被害を蒙ったにもかかわらずこの堂宇は焼失を免れ、霊験あらたかなお地蔵さんと地域の人々に信仰され親しまれている。

ただ 堂宇は年代を経て老朽化が著しいため平成15(2003)隣接の太田診療所の新築と同時に建て替えられ現在のお姿となっている。

 

天六東通り商店会会長 川島長利 撰文】

現在の住まいの情報センタ-の建物が墓地であったことを考えると複雑な思いとなる。

また、都島通りの道の向こう側の国分寺には、大阪万国博が開催されている時に「天六ガス爆破事故」があった所でもある。79名の犠牲者をだした。複雑な思いで拝ませて戴いた。