長く信仰という活動を行い、そして現在は「谷口雅春先生」の生涯を辿り。如何にして“生長の家”がここまで発展したかを考えると、感慨深いものがある。“生長の家”の歴史を学ぶことが如何に大切かを少しずつであるが、学習させていただいた。

とりわけ、【自分の脚で学ぶ】ことを私は基本において、努めて「その地」に憧憬の念を抱くように辿った。

 

トキさんが掲示板に書いている

【二・二六事件の時に反乱軍に参加した兵隊の尋問を担当した人の回顧録を読んだことがあります。この事件で、襲撃対象者の殺害行為をした兵隊を調べたら、普段、軍務に真面目で、昭和維新の運動などには関係せず、上官の命令を素直に実行した人が、命令されるままに殺害行為を実行したそうです。逆に青年将校の感化を受け、昭和維新の勉強をしていた兵隊は殺害行為に関与していなかったということです。普通に考えたら、陛下の股肱を殺害するなどはとんでもない行為です。ところが、素直な人は、上官の命令を受けると、何も考えずに殺害を実行したのです。生長の家では「はい」を大事にしますが、何に「はい」かを気をつけないといけないのですね。

 

 私の知り合いにも、安東さんが教化部長だった時期には安東さん万歳で、最近は総裁万歳という人もいます。その変節には仰天しましたが、普段、何も考えない人なので、妙に納得したものです。】

 

 トキさんが書いているような信仰者は“生長の家”とは何かを学習していないからそのようになるのです。単に盲目的な信仰はその本質が見えなくする危険なことであります。

 

だから『生命の實相』をしっかりと学習すれば、現在の教団の可笑しさが「理解」出来る筈なのです。簡単なことだが、それが理解出来ない人はどうしょうもない。例えば「生長の家」は中心帰一の信仰だから“総裁”に「ハイ」であるとかは、間違っている。

何が間違っているかは『生命の實相』を讀めばわかるのですが、その内容に例えば谷口雅春先生は「自分に中心帰一せよ」なんて書いていないのです。その中心帰一という根本教義は「天皇陛下」に中心帰一を何度も書いている。それを発言しなかったり、それを書かないことは「生長の家」根本教義から離脱していることなんです。故に“教勢の数位”が滑り台を下るように落ちて行くのです。生長の家は「天皇信仰」だということを忘れ呆けいることが、教勢が落ちる所以だということを学習しなければならない。

 

よく例えられるのが「良人にハイ」という言葉である。享楽を趣味として、賭け事を行い、女遊びを行うような人に中心帰一出来るかどうかであります。意見を云えば「暴力」を振るうような良人には中心帰一をすればいいのかであります。私の意見は「中心帰一することは間違っている」と指導しなければならない。「良人の實相」を観るとかで、現在の情況を否定することなんです。現在の情況を肯定する気持ちがあれば、良くなるものも、良くならないのです。

 

だから、現在の情況は総裁という“享楽”を趣味とした『生命の實相』を讀まない人は中心帰一を出来ないと“はっきり”と発言することなんです。それが出来ない人があまりにも多いことを嘆くしかない。現在の情況を雅春先生は

 【私は中学時代大阪市岡中学で学んだのであるが、教師は演壇にたったとき、生徒総代又は級長が号令をかけて「先生に礼拝・・・・直れ」などと音頭をとって「形式的に敬礼」させるのでは軍隊式で、形式が先に立って「先生に礼拝する」ごとき魂で恩愛を感じて自然にお辞儀が出てくるのとは違って、強制される礼儀形式ばかりが先に立つ。】

 

だから、その生徒や信徒に強制的な命令や指示などは反対に反感を招くだけである。また

【現在、学校で教職についている先生方は自分の知っている知識を生徒に授けるのが教職者の仕事であるとのみ思っているらしい。“授ける”“受ける”の立場に立って、先生と生徒の関係は、上位と下属との関係であると漠然と思っている先生が多いのではあるまいか、なまけていて進歩の少ない生徒は劣等の人間であると、先生はその生徒を軽蔑する。生徒は教師の自分に対する軽蔑を先生の表情又は雰囲気で直感する。生徒はこんなとき先生より霊感的であり、先生の軽蔑心をすぐ直感的に身を以って体感する-“何クソ”と生徒は先生に反感を起すのだ-もうこうなったら“正しい教育”は成り立たないのである。生徒は先生に対して敵意をもつ。生徒の教師に対する校内暴力は此の敵意のあらわれであるのだ。】

 

このように雅春先生がご説明されているように、現在の生長の家教団は斯くの如き「敵意」を知らず知らずのうちに抱いているから「正しい宗教」の教えが出来ていないから「本来の宗教的な情操教育」に適さないのです。だから現在の「教団」を否定することから始めなければ、本来の宗教の教えが分からなくなる。

 

大阪教化部では和泉葛城山をヒルクライムすることで『新天地』が書いていた。別に昔も「ピクニック」や「ハイキング」や「キャンプ」などを行ったが、それは本来の宗教活動をしていたから、私はそれも大切なことだと思うが、現在は自転車遊びは教団の活動指針に入っているから、それは間違っていることである。宗教は「人を救う」「国家を救う」ことを行わなければ「破滅」するしかないのである。

このことを証明するかのように「信徒数」は二十数年前とは1/21/3とガタ落ちとなっているのです。

そんな時期に「ヒルクライム」するのはどうもおかしいのですが、活動しているとその可笑しさに気が付かない。いくら嘆いても、駄目です。もう破滅するしかないことを覚悟するしか残念ながらありません。