1. 日野智貴

 20190731 10:38

 丁寧にご教示くださり、ありがとうございます。

 私も歴史学を学ぶものとして、より現地の古墳を調査したいと思います。

 箸墓を卑弥呼の墓扱いする違和感は、私も抱いています。

 『古事記』『日本書紀』をどう読んでも倭述述日百襲姫の陵墓以外の解釈はあり得ませんもんね。

 

現在、左翼的思想に凌駕されている考古學を彼のような“日本的思惟”を持つ人が早く物質的な考古學ではなく、靈學的な價値ある“古事記”“日本書紀”から發露する「考古學」を生み出して欲しい。それは言靈的解釋による「日本的なるもの」であります。

單に銅鐸という物質を視て、これは紀元何百年のものであるとか、須恵器も見て年代だけの興味をもつのではなく。

 

例えば、三角縁神獣鏡は日本だけにしか産出していないものである。それをより“日本的”なる解釈で考察していただきたい。先日、桜井市にある「谷」という地名の所に行ってきた。ここは磐余という地名で昔は呼んでいた。この磐余こそ「神日本磐余比古命」の名前の由来となった地であります。

日本書記に記された神武東征の物語には、「磐余の地の旧名は、片居または片立という。大軍集(つど)いてその地に満(いは)めり。因りて改めてその地を磐余とする」との記述があり、神武天皇の和風諡号にも神日本磐余彦天皇と「磐余」が含まれています。この地は、古代ヤマト王権の根拠地として、履中天皇の磐余稚桜宮、清寧天皇の磐余甕栗宮、継体天皇の磐余玉穂宮、神功皇后の磐余若桜宮、用明天皇の磐余池辺雙槻宮などの諸宮があったと伝えられています。また、履中天皇の条には、「磐余池を作る」と記されています。

 

このように、その地域に行って昔の暮しや憧憬の念で思い浮かべて戴きたい。

 

期待しています。