雲巌寺 顕日王墓 後嵯峨院皇子

八溝山地のふところ深く、清らかな渓流に沿う境地に、臨済宗妙心寺派の名刹、雲巌寺があります。

 

 筑前の聖福寺、越前の永平寺、紀州の興国寺と並んで、禅宗の日本四大道場と呼ばれいるこの雲巌寺、俳聖松尾芭蕉は『啄木(きつつき)も庵(いお)は破らず夏木立』の句を残しています

 

当国雲岸寺(なぜか芭蕉は雲岸寺と記しています)の奥に仏頂和尚山居跡あり~。芭蕉がどうしても見たかったという、仏頂国師が書き残した句は『縦横の五尺にたらぬ草の庵、むすぶもくやし雨なかりせば』。いかに小さな庵であったかが、想像できます。

 

 以前に鎌倉の建長寺で顕日王として分骨された陵墓を紹介させていただきましたが、今回は最後の庵となった雲巌寺です。墓までは通行禁止となっている為、参拝は出来ませんでしたが、風光明媚な場所でも知られている。

 

後嵯峨院の皇子という。母は不詳。字は高峰、諱は顕日。

 康元元年(1256)、出家。東福寺の円爾弁円(聖一国師)と来朝僧兀庵普寧(ごったんふねい)に学んだ後、関東を行脚し、下野国那須に庵を結ぶ。弘安二年(1279)、上野国長楽寺で無学祖元に謁し、以後弟子となる。同四年、鎌倉建長寺において無学より伝法衣を授かる。弘安六年(1283)、北条時宗を大檀越とし、那須黒羽に雲巌寺を開山。同寺には仏国を慕って多くの僧が集まり、その中には夢窓疎石もいた。晩年は鎌倉浄妙寺・建長寺他の住持を務めるなどしたが、正和四年(1315)那須に帰り、翌年十月二十日、雲巌寺にて遷化。七十六歳。仏国国師と諡号され、のち応供広済国師と追諡された。墓は雲巌寺境内にある。

 『仏国禅師集』(「仏国国師御詠」など、標題は様々)がある。風雅集に二首、新続古今集に一首。冷泉為相との交際が風雅集所載歌から知られる。

 

月ならば惜しまれてまし山の端にかたぶきかかる老いのわが身を

 

夜もすがら心のゆくへたづぬれば昨日の空にとぶ鳥の跡

 

しげりあふ峰の椎しば吹きわけて風の入れたる窓の月影
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顕日王の墓の前
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