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 これだけ楠木正成の事を知っていると思っていたのが、こんなことも知らないのかと自分自身を嘆いた。

それは「嗚呼忠臣楠子之墓」ですが、これは楠子だから、正成と正行の事だと勝手に思い込んでいた。

 

此処で何も疑わずに思い込んでいたので、間違いにも気が付かない。

 

75日の産経新聞に

 

 大事がなせたのは文武に秀でた帝の徳のためで、自分の微力は何ほどの功績もなかったというのである。正成の尊皇意識は後世、水戸光圀を感動させ、湊川神社の起源となる正成の墓所造営へつながる。

 <嗚呼忠臣楠子之墓(ああちゅうしんなんしのはか)>

 境内に立つ墓碑の碑銘は、光圀の筆によるもの。但野氏は「『子』とは『先生』という意味で、光圀という人物が、それだけの表現で正成公を絶賛したことに重みがあるのです」と強調する。

 

私の知識不足を嘆くしかない。DSC_0044
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水戸光圀像
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「飯山の昼行灯」より抜粋させていただきました。

■ 明治天皇御製「湊川懐古」

    あだ波を ふせぎし人を みなと川 神となりてぞ 世をまもるらむ

 

 

 ■ 吉田松陰ゆかりの楠公墓所 ~吉田松陰と楠木正成公(楠公)~

    松陰は、楠公墓前に 4 度も参詣しており、墓碑の拓本を表装し、松下村塾に掲げて久坂玄瑞、高杉晋作、入江九一、吉田稔麿など

   沢山の門下生に楠木正成公の話を熱く語って聞かせ、尊皇攘夷に駆ける彼らを奮起させました。

 

 

   ~墓所に参詣した幕末の志士たち~志士達の楠公に寄せた思いや楠公墓前で誓った決意の歌などの一端の御紹介 です。

 

   久坂 玄瑞   「湊川にて みなと川 身を捨ててこそ 橘の香しき名は世に流れけん」

     入江 九一   「桜井の その別れ路もかかりけむ いまのわが身に思ひくらべて」

     吉田 稔麿   「日頃ながさん私の涙 何故に流れるみなと川」

     坂本 龍馬   「湊川にて 月と日の昔を忍ぶみなと川流れて清き菊の下水」

 

 

 ■ 水戸光圀公による楠公墓碑「嗚呼忠臣楠子之墓」

    元禄五年(1692)に、権中納言徳川光圀公(水戸黄門)は、家臣佐々介三郎宗淳を、この地に遣わして碑石を建て、光圀公みずから

   表面の「嗚呼忠臣楠子之墓」の文字を書き、裏面には明の遺臣朱舜水の作った賛文を、岡村元春に書かせて、これに刻ませました。

 

 

   大楠公御碑賛 読み方

      忠孝著乎天下日月麗乎天天地無日月則晦蒙否塞人心廢忠孝則亂賊相

      尋乾坤反覆余聞楠公諱正成者忠勇節烈國士無雙蒐其行事不可概見大

      抵公之用兵審強弱之勢於幾先決成敗之機於呼吸知人善任體士推誠是

      以謀無不中而戰無不克誓心天地金石不渝不爲利囘不爲害故能興復

      王室還於舊都諺云前門拒狼後門進虎廟謨不臧元兇接踵構殺國儲傾移

      鐘功垂成而震主策雖善而弗庸自古未有元帥前庸臣專斷而大將能

      立功於外者卒之以身許國之死靡佗觀其臨終訓子從容就義託孤寄命言

      不及私自非精忠貫日能如是整而暇乎父子兄弟世篤忠貞節孝萃於一門

      盛矣哉至今王公大人以及里巷之士交口而誦説之不衰其必有大過人者

      惜乎載筆者無所考信不能發揚其盛美大德耳

        右故河攝泉三州守贈正三位近衛中將楠公贊明徴士舜水朱之瑜字

        魯之所撰勒代碑文以垂不朽

 

 

   忠孝は天下に著き、日月は天に麗く。天地日月無ければ、則ち晦蒙否塞し、人心に忠孝を廢すれば、則ち亂賊相尋ぎ、乾坤反

    覆す。余聞く、楠公諱は、正成、忠勇節烈、国士無雙なりと。其の行事を蒐むるに、概見すべからず。大抵公の兵を用ふるや、

    強弱の勢を幾先に審らかにし、成敗の機を呼吸に決す。人を知りて善く任じ、士を體して誠を推す。是を以て謀中らざる

   なく、而して、戦克たざるなし。心を天地に誓ひ、金石渝らず。利の為に囘はず、害の為にれず。故に能く王室を興復して、

    舊都に還す。諺に云ふ、前門に狼を拒ぎ、後門に虎を進むと。廟謨臧からず。元兇踵を接し、國儲を構殺し、鐘

    を傾移す。功成るに垂んとして主を震す。策善しと雖も而も庸ひられず。古より未だ、元帥前をみ庸臣専斷して、大将

    能く功を外に立つる者有らず。之を卒ふるに身を以て国に許し、死に之くに佗靡し。其の終りに臨み子に訓ふるを觀るに、從容と

   して義に就き孤に託し命を寄するに、言私に及ばず。精忠日を貫くに非ざるよりは、能く是の如く整ひて暇あらんや。父子

    兄弟、世々忠貞に篤く、節孝一門に萃まる。盛なる哉。今に至るも王公大人より、以て里巷の士に及ぶまで、口を交へて誦説

    して之れ衰へざるは、其れ必ず大いに人に過ぐる者有らん。惜しいかな、筆に載する者孝信する所なく、其の盛美大德を發揚

    すること能はざるのみ。

       右は、故河攝泉三州の守、贈正三位近衛の中将楠公の贊、明の徴士舜水朱之瑜字魯の撰する所なり。勒して碑

       文に代へ、以て不朽に垂る