『古事記』『日本書紀』での神武東征の役割では「高倉下」という人物がどうしても、表立って出てこない。私は不思議で仕方がなかった。何故であろう。

高倉下、この名前が『古事記』『日本書紀』から出典したときには、何の意味かわからなく、どうしても謎が解けないまま、神武天皇の東征が立ち止まったまま、時間が経過した。

高倉下、人物の名前であるという。兄猾(えうかし) 弟猾・弟宇迦斯(おとうかし)というように人物に“じ“や”し“を付ける。高倉下(たかくらじ)とは

 

『古事記』では

此時、熊野之高倉下此者人名一横刀、到於天神御子之伏地而獻之時、天神御子寤起、詔「長寢乎。」故、受取其横刀之時、其熊野山之荒神、自皆爲切仆、爾其惑伏御軍、悉寤起之。

 

 (現代語訳〉

 さて、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト 神武天皇)は、そこから南に回って行かれ、熊野村に到着されたとき、大きな熊がちらりと見え隠れして、やがて姿を消した。すると神倭伊波礼毘古命は、にわかに正気を失われ、また兵士たちもみな気を失って倒れた。このとき、熊野の高倉下(タカクラジ)という者が、一ふりの大刀を持って、天つ神の御子(神武天皇)の臥しておられる所にやって釆て、その大刀を献ると、天つ神の御子は、即座に正気をとりもどして起き上がり、「長い間寝ていたなあ」と仰せになった。そしてその大刀をお受け取りなさると同時に、その熊野の山の荒ぶる神は、自然にみな切り倒されてしまった。そしてその気を失って倒れていた兵士たちも、みな正気をとりもどして起き上がった。

 そこで天つ神の御子が、その大刀を手に入れたわけをお尋ねになると、高倉下が答えて申すには、「私が夢に見ましたことは、天照大御神と高木神の二柱の神の御命令で、建御雷神(タケミカヅチノカミ)を呼び寄せて仰せられるには、葦原中国はひどく騒然としているようだ。わが御子たちは病み悩んでいるらしい。その葦原中国は、もっぱらあなたが服従させた国である。だから、そなた建御雷神が降って行きなさい』と仰せになりました。これに答えて建御雷神が申すには、『私が降らなくても、もっぱらその国を平定した大刀がありますから、この大刀を降しましょう』 と申しあげました。この大刀の名は佐士布都神(サジフツノカミ)といい、またの名は甕布都神(ミカフツノカミ)といい、またの名は布都御魂(フツノミタマ)という。この大刀は石上神宮に鎮座しておられる。そして建御雷神は、この大刀を降す方法は、高倉下の倉の棟を穿って、その穴から落し入れることにしよう。だから、おまえは朝目覚めて、縁起のよい大刀を見つけて、それを天つ神の御子(神武天皇) に献上しなさい』 と仰せになりました。そこで夢のお告げのとおりに、翌朝私の倉の中を見ると、はたして大刀がありました。それでこの大刀を献上するしだいです」と申しあげた。

(以下略)

 

高倉下とは神を祀る高い庫(ほくら)(秀倉(ほくら)、「ほ」は火や穂のごとく、秀でて貴いという意)の主という意であろう。

『旧事本紀』によると、高倉下は物部氏の祖神・邇藝速日命の子となっている。また鎮魂歌に石上の布都の太刀を歌っているのをみると、宮廷の鎮魂祭儀に物部氏が参与していたと推察される。

この神話は石上神社の神剣をもって神武天皇の御魂鎮(みたましずめ)を図ったものと思われるし、鎮魂儀礼を表現したものであるといえよう。

(日本の神様読み解き事典より)

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『日本書紀』では

故、天神御子、問獲其横刀之所由、高倉下答曰「己夢云、天照大神・高木神二柱神之命以、召建御雷神而詔『葦原中國者、伊多玖佐夜藝帝阿理那理此十一字以音、我御子等、不平坐良志此二字以音。其葦原中國者、專汝所言向之國、故汝建御雷神可降。』爾答曰『僕雖不降、專有平其國之横刀、可降是刀。此刀名、云佐士布都神、亦名云甕布都神、亦名云布都御魂。此刀者、坐石上神宮也。降此刀

者、穿高倉下之倉頂、自其墮入。故、阿佐米余玖自阿下五字以音汝取持、獻天神御子。』故、如夢教而、旦見己倉者、信有横刀。故、以是横刀而獻耳。」

今回は奈良県榛原にある椋下神社と三重県の伊賀上野にある高倉神社に行きました。

椋下(くらじ)神社
祭神
高倉下命
摂社 金刀比羅神社「大名牟遲命」、愛宕神社「軻遇突智神」、庚神社「猿田彦神」


由緒
 延喜式神名帳宇陀郡の「椋下神社(鍬)」とされる。椋下については、ムクモト、ムクノシタ、クラジなどがある。『神名帳考証』、『大和志』は式内社の所在は未詳としている。
 旧の鎮座地は東南に1kmの標高521mの福地岳の山中「くらかけ」の地に鎮座していたが、何時の時代にか、当地に遷祀されたと伝えている。この福地岳は別名をタカクラ山と言うが、社名のクラジと余りにも合いすぎるので、近世の付会とされている。
 古老の口碑によれば、神武天皇が紀伊国熊野邑に到った時、高倉下が横刀を献上した功によって、高塚邑の八咫烏神社と同時期の慶雲二年(705)に創祀と伝えている。
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高倉神社
祭神 高倉下命 配 倭得玉彦命
境内 八幡社、春日社



注釈    高倉下命の七世の孫倭得玉彦命がこの地に遷り、祖先をここの霊地に祀ったと言う。
 神社前の説明板には垂仁天皇の時代の創建と記されている。本殿左右両殿は天正二年(1574年)の建築である。 丹精をこめて維持されている。
 境内のシブナシガヤは国の天然記念物、また社殿背後の神体山にアヤマスズが自生していると言う。県天然。

 日本最古の補陀落寺町石のある補陀落寺は別当寺。南紀からの勧請の臭いもする。

 倭得玉彦命は卑弥呼の父親との見方がある。邪馬台国建国の謎を解きうる神社の可能性がある。 倭得玉彦命の子に日女命と弟彦命がおり、日女命の孫に乎止与命がいる尾張氏の系図が存在する。 卑弥呼と男弟、また台与にピッタリ当てはまる。

 大和の東の都祁から近江の南の柘植へ出るルート沿いにこの上野市があり、当神社はこの平野の北西に鎮座する。伊賀は縄文、弥生遺跡が多く、銅鐸も発見されている。 
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