立葵さんが記入されておられる。

もしもこの「讃歌」が初めは歴史的仮名遣で書かれてゐたのを現代仮名遣に改めただけだったのでしたら、非礼をお詫び申し上げます。

 

実際は立葵さんも御存知である。「現代的假名遣」で書かれたのが『観世音菩薩讃歌』である。それは「唐松模様」の2012527日の

 

これまでの論文方式とは異なる詩の形式を使って--言い換えると、左脳的な言語ではなく右脳的な表現を使って、観世音菩薩について説くものがあってもいいと考えるに至った。それを読むことで、観世音菩薩の何であるかを論理的にではなく、直感的に感得してくださる読者もいるのではないかと期待している。今後数回にわたり、「大自然讃歌」に続く長編詩として本欄で発表させていただこうと思う。この長編詩「観世音菩薩讃歌」も、前回のものと同様に「聖経に取って代わるもの」を意図していない。諸処に聖経から引用しながら、聖経では触れられていない方面への補強を試みている。

 

そのシリ-ズを讀んで行くと「現代的假名遣」で書かれているのがわかる。

「善」の項目で

猛獣走りて鹿を倒し

カマキリの鎌、小虫を捕らうれども、

その結果、必ずしも悪に非ず、

善に非ず、

定められたる法則の産物にすぎざるなり。

 

何か違和感がある。「猛獣走りて」鹿を倒すなど、オカシイとしか言いようがない。自然の鹿は走っている姿を見たことが無いのであろう。テレビで「アフリカ動物王国」などを見て書いたのであろうが、私は「登山」や「トレッキング」で何回か「鹿」が疾走してゐる姿を見ている、その見た感想であるが、蹴り上げる後ろ足で、10m程前で着地する。驚くべき跳躍力である。それを追いつく「獣」など日本にはゐない。

 

 また、上記では「現代的假名遣」ではない、単に「聖經 甘露の法雨」を真似ただけである。右脳的な表現を使って書いただけであるから、そこから「奇蹟」など生れようがない。