先日、大阪教化部に立ち寄った。昔から知っている同志と二名程話した。彼は『古事記と現代の預言』の雅春先生の御著書が絶版になったら「生長の家」の職員を辞めると言っていたことを思い出す。そんなことを思い出しながら話をした。当時から私は辞めなくてもいいと思っている。反対に職員として頑張って欲しいと思っている。それは彼が真摯にこの「生長の家」と対しているからである。彼の真面目な生き方は「生長の家」の見本である。幼き頃から生長の家の生き方をしていた彼は、中学生の頃から知っている。

 

もう一人の方は今、幹部として頑張っている。彼も直向きな姿勢は私を超えて素晴らしいものである。私以上の「谷口雅春先生」の思いは尊敬する。彼は私が青年会専従していた頃によく青年会に来て、騒然とした青年会の部屋を片付けたりして戴いたことを思い出す。そんな人間ならばこそ、この「生長の家」でも職員としてやっていけるんだと思っている。

 

「谷口雅春先生」の信仰を実直に行っている。こんな人が多いのも大阪の特色でもある。信徒の教勢を減らしているとはいえ、大阪練成会には500名以上の動員である。さすがに日本一の教区である。ただ、単位青年会や相愛会はその人数の減少は凄まじい。私達が行っていた青年会は既に消滅して久しい。私達青年会時代は5か所程あった単位青年会は青年局が無くなった時期でも1カ所で行っていたが、次第に消滅した。大阪教区の規模があれば、「学ぶ会」に入会する人も多いだろうと考える人もいるが、それが不思議なことに少ない。推測ではわかるが、あくまで推定の域を出ないのでここでは発言を控えたい。

 

話は変わるが、「破邪顕正さん」には何度かこのブログで「反教団」という狼煙と蹶起しすぎる思いを自重してほしかった。私でも「破邪顕正さん」言い過ぎの面を歪めないことを感じている。何故、そこまで書くのか不思議である。今回、直々に「谷口貴康先生」から反論があった。どう答えるのか、もしくは全く無視するのかであろう。言われた方は悲痛な思いである。

それに対して「トキ」さんの対応は素晴らしかった。

 

 ただ、トキの投稿が原因となり、結果として破邪顕正さんがあのような投稿をされた事については、谷口貴康先生をはじめとして谷口家の方々には申し訳なく感じております。

 

素直に謝っておられる態度は敬服する。私も何か問題発言したのであろうか、若し、言動しているならば貴康先生に謝りたい。

 

令和といういい時代。私もこうして「文筆」などで発言してきたが、いつかは「公にて発言」も考えている。「谷口雅春先生」の歴史を語るのであれば、率先して私は手を挙げたい。そうでないと、本当の雅春先生像を語る人はなかなかいないからである。以前と違って『生長の家五拾年史』を語る人も少なくなっている。「生長の家」も歴史を断絶しているからであろう。それは全てではないが、生長の家では“歴史と向き合う“ということもしなくなった。私達青年会時代は歴史を徹底的に勉強した。歴代天皇の御歌等、その学習意欲は維新前夜に及ぶ、大東亜戦争の勉強や”日本国憲法制定史“などもそうであった。しかし、雅春先生の歴史などあまり勉強してこなかった。それほど重要だと思っていなかった観がある。

 

ただ、歴代天皇陵については昔から、参拝するのは当たり前だという観念があり、神社仏閣に及ばずどういう人かを考証することが好きになった。なかなか『谷口雅春先生著作年譜一覧表』まで進まないが、現在「教団」では“ムスビ”ということを大きく取り上げているが、今回「立仙淳三と生長の家」で追補して書いた。読んで下さい。まったく、「ムスビ」という観点が現教団と違いますが、「則天去私」はこんなことまで書いています。