眞理は古いと新しいとを超える

―講義する人と講義を聽く人とに就いて想ふ―

宗教の話を聽聞に來てゐながらそんな話は古いといふ人がある。さういふ人は目新しいことだけが眞理であり、價値があると思ってゐる人であらう。感覺的に新しいものだけを追求するところに宗教も道德も存在しないのである。

 

 宗教家は單に話の新規に追ってはならないのである。また宗教の教へをきこうとする人も、新しい話がききたいと思ってはならないのである。新しい話をききたければ寄席に行って、萬才や落語をきくがよいのである。宗教家に求むるべきものは話の斬新さではないのである。宗教家に求むるべきものはその人の悟りの深さであり、その人の『信』の深さでなければならない。その悟りと信仰とが、話をきいてゐるうちに以心傳心その信仰と悟りとが聽聞者につたはって來て、自然に聽聞者の迷ひが除れ、その影響が肉體の健康状態や、生活環境の變化にも現はれて來るやうでなければならない。話の新規が宗教の値打ではない。以心傳心、悟りを傳へ信仰を深める迫力がその宗教家の講話のなかにあるかないかが問題なのである。兎も角、生長の家の宗教の法話やその教への書籍は、實際、ゆがめる家庭を正しくし、衰ろへた健康状態を恢復し、難治の病氣を自然消滅さしめるだけの迫力があるのである。それは新しいとか古いとか超越した「今生きてゐる眞理」であるからである。

 

 禅宗に公案と云ふものがある。これは單なる「悟りに關するクイズ」と云ふやうなものではない。これは宗教の先輩祖師たちが如何なる時に如何に行動し、如何に問答したかの足跡であって修行の規範となり、それを基本として後輩が自己を脚下照顧して悟りを深めるための基準となるものである。それは先輩祖師の言行であるから「古い」ことはいふまでもない。しかも眞に味へば、津々として新しい味はひが湧き出て來るのである。それを味はふことを知らずして、古い言行ばかり持ち出して話してゐるから「あの講師は古い」と評するのは要するに自己の浅薄さを暴露しているに過ぎないのである。

 

 單に宗教だけではない。藝術でも。眞に深い「美」を内に藏してゐるものは、いくどそれを鑑賞してゐても古いことはないのである。「美」は常に新鮮にして新しいのである。だから例へば先代幸四郎の「勧進帳」などは毎年その同じ出し物を出してもやはりそれを悦んで觀にいくのである。それだけ觀客を聽きつける力がある幸四郎も素晴しいが、毎度それを鑑賞して常に新しい美を見出してあきない観客も、やはり偉ひと思ふ。話の筋の面白さを觀に行ったり聽きに行ったりするならば「勧進帳」などは一度觀れば、「それでわかった。もうよろしい」であらう。しかし藝術を味ふのはそんなものではないのである。

 

 そころが宗教の話をききに行くのに信仰體驗談の筋の面白さや、時々話の中にはいるユ-モアの樂しさを聽きに行く人がある。信仰體驗談は、禅宗でいふ「公案」と同じことで先輩求道者の悟りに到る言行の足跡であり、その足跡を足場として聽聞者は、ちょっとでも悟りや信仰の心境を高めやうと思って、講師がその話の何處に力點を置き何處にアクセントを加へ、如何にそれを開設するかを瞬きもせずに傾聽するやうにしなければならぬ筈のものである。寄席の落語をきくやうに筋の新規をもとめるから「新しい」とか「古い」とかの問題が起るのである。併し、一方講師は默ってゐても聴衆の信仰を髙め得るほどに自己自身の心境を髙めることを心掛けなければならない。「維摩の一默雷の如し」と維摩の悟りが評されてゐる。と言って、講師は話の下手なのが名誉ではない。講師の折角の悟りも聽衆の心境の高い人のみわかって聽衆の心境が惡くて新しい話の筋や巧妙な話術のみにあこがれて來るやうな人には一向わからないやうな話をするのでも困ったものである。そこで講師たるものは話術をみがかなければならぬし勉強をして話材を新しくして感銘を深からしめることも必要である。しかし話術といふものも悟りをはなれて話術といふものが獨立して存在するといふわけでもない。悟りが徹底すれば辯才無礙になることができるのである。話術だけ獨走してしまって中味が空っぽになっては、話術が下手で、中味が充實してゐる方がましである。

 

上記の本は雅春先生が昭和29年に『我々は光明化運動をどう進めるか』で御寄稿された文章です。

 眞理には新しい「古い」はありません。また「今の教え」とかありません。自己がどれほど悟っているかが、講話するのに必要であります。眞理はそれほどの價値があるもので、訥々と講話している人に何度も感激した憶えがあるのも、話術のみが眞理ではないことを立證している。新しい年を迎えるにあたり、「新しい」のが「古い」ということがあります。話術のみを盛んに売り出して講話されている講師もおられるが、よく感想を聞けば「面白かった」という内容でした。それを聞いてやはりそうだったかと、ガックリした経験があります。講話で観衆を「生命の坩堝」にする講師は今は少ない。