破邪顕性さんが勢いよく下記のように云われています。

 

だから、「和解派」の「トキ」さんの口から、〝共存共栄〟という表現が出たことを知って戸惑いを覚えると同時に、何か「谷口雅春先生を学ぶ会」の存在を認めていただいたようで嬉しくもあったのです。

 

教団も「谷口雅春先生を学ぶ会」も、もはや別々の道を歩みはじめているのです。

 

谷口雅宣総裁の考え方がいいという「生長の家」。

 

尊師・谷口雅春先生の教えこそが本当の「生長の家」。

 

その二つの「生長の家」が並び立って、それでいいのではありませんか。

 

私は破邪顕正さんの主張はその通りであり、今更和解など出来ないと心の底では思っています。和解してどうなるのかというと、現状のままでは混乱だけである。それでも、「生長の家」は旧態依然として変わっていないと主張する人と雅宣総裁で「新しい教え」や「立憲主義」とかで全く異質な集団となった。それぞれの主張を対比して考えてみればわかることである。

 

或る方からメ-ルを頂いた、それは

 

 今の信徒は「谷口雅春先生」の古い話など、それを求めている人はいないからと言われたといふ。

 

たしかに、「今の信徒は求めていない」というのはその通りだと思います。私のように古い文献を漁って、それを記入したりしているような信徒など私自身、全国でも10人もいないと考えています。

「亀の子ブログ」さんや数人である。それを今でも探究して「生長の家」との関わりを考えているような人は最早「考古学」であると揶揄されるであろう。その方に下記のようにメ-ルを認めた。

 

【今の信徒さんはそんな昔の話はいいと言われていますが、現在の状況であればそれも致し方がありません。谷口雅春先生の真理を悟られた経過などどうでもいいのが、現在の状況なのはよくわかります。

 

 『生命の實相』が教団から無くなっても平然と出来るのも、「過去」だからなんです。捉え方の違いなのです。歴史の捉え方が全く違うからなんです。

 

 歴史とは「生命のがり」という生成化育なのです。それをわからないと「天皇」という存在も解らなくなるのです。だから、そんな人は歴史の絲のがりがわからない人です。

 

「生成」とは生長の家では「せいせい」と普通に讀みますが、「なまなり」とは魔性が充分に徹底されていない状態をいいます。魔性とは恐ろしいことですが、物質や現象を捉えて生きているような人だと思います。神は宇宙の実相で生成化育の大生命だといっても解らない人だと思います。】

 

歴史のがりということを考えるのに「元号」という世代の昭和、平成の御代で生きた私は「平成」というのを過去であると断じるのに等しいと捉えています。とりわけて思うのは「天狗になる」事を戒めることです。私も「谷口雅春先生」の歴史を独自で記入していますが、こうして出来るのも「谷口雅春先生」のお蔭であると常に思っています。

ここがオカシイから「変えてやるんだ」とか増上慢の逆上せた気持ちがあれば、それは違いますと断言します。「やらせて戴く」という謙虚な気持を常に持ち維持することが大切です。新編『生命の實相』を出版される当初からそのように主張しております。

 

私は破邪顕正さんの主張は正しいと云いましたが、ただ現状の「谷口家」と「学ぶ会」が疎遠になるのは心苦しい。全国大会でも谷口家から誰も参加されないのは、納得出来ない。(招待されているのかは存じない)もう少し穏便に参加出来るように出来ないのであろうか。それも人格であろう。

 

「間違っている」とわかっても、受け入れる部分もあるであろう。以前に譬えたが、江戸時代に「村八分」という風習があったが、これも日本の独特の制度で考えてみると「温かい部分」もあることを素直に喜ぶ。

『地域の生活における十の共同行為のうち、葬式の世話と火事の消火活動という、放置すると他の人間に迷惑のかかる場合(二分)以外の一切の交流を絶つことをいうもの』なお、残り八分は成人式、結婚式、出産、病気の世話、新改築の手伝い、水害時の世話、年忌法要、旅行であるとされる。

 

みんなに迷惑がかかる行為は、こうして「谷口家」の疎遠になることであろう。どうにか出来ないのであろうか。私は破邪顕正さんの主張は間違いとか思いませんが、文章に「人に厳しい文言」が見られるのは少し違っていると思っています。それと「谷口雅春先生の文章を使用して、相手を戒めるのも、私は心苦しい」正に、この文言も雅春先生の文章で引用も出来ますが、それはさすがに心苦しいのです。

 出来ないと解っていても手探りで「教団」とのがりを何処かで保持して欲しいと私は思っています。