『やまと新聞』昭和49年1月5日

年頭の所感 古事記の預言せる石油危機を探る
(やまと新聞)

地球文化の一周期が終りに近づき我らは新しき年を迎えんとするのである。

地球にも周期があり、人間にも周期があり、人間の使う資源の供給にも周期があり、そこに秩序があり、秩序の中に神の無言の“指導の智慧”があるのである。周期の終りには、新しき秩序と入れ変るための破壊と混乱とがあるのは、肉体人間が地上生活の一周期が終って、その霊魂が霊界に移行しようとするとき、その肉体にも精神にも擾乱が生ずるのと同じである。精神が既に浄められた人には臨終に際しても精神的擾乱があまり起らないで平和と感謝とが見られるが、生理的秩序の混乱は概ね避けられないものである――それと同じように、地球の一周期の終りが近づいて新しき周期の出発に近づこうとするときには、処々に爆発が起ったり、今まであまり起らなかったところに地震が頻発したりする。

人種の盛衰にも周期があり、今まで勢力を得て地球面を支配してわがもの顔に振舞って来ていた白人種の支配力が後退して、有色民族が勃興伸展して白人種を圧するようになるのである。アラブ民族の連合による白人の文明をその基礎から覆そうとする石油の減産、供給の制限は地上の文明が白人支配から有色民族支配に移行しようとする最初の兆候であるということができるのである。

 世界人類の心はこれによって動揺する。人心の動揺に從って気候も動揺して、これまでになかった気象状態が地球上を訪れて来る。南よりも北の方が温度が高いような変化が頻発する。また諸方に、今まで期待されなかった地域に地震が起ったりする。それは人体が断末魔のときに痙攣が起ったりするようなものである。

 しかしこれらの事は応(まさ)にあるべき事があるのであって別に恐怖すべき事でも驚駭(きょうがい)すべきことでもないのである。地球を支配する生命が新生しつつあり、新しき秩序が生まれて来つつあるのである。人間の肉体の死が悲しむべき事でも、恐るべきことでもなく、それがその人の魂の新生を迎えんとしつつあるようなものである。

 毛虫は蛹(ナサギ)となり、一時、死んだように静止するけれども、やがて翅(はね)が生えて空中飛行をするのである。

 人類の文明も、毛虫が植物の葉をやたらに食して糞(くそ)を諸方にたくさんひり散らして生長するように、多くの地上の資源を食い荒らして、至る所に公害の糞(くそ)を垂れた。その糞のために物質文明は人間から嫌われ、愛想をつかされたのである。しかし毛虫は、そのような過程を通してのみ、美しき蝶となって空中に舞う舞姫として蝶となることができるのである。

 それと同じく人類の文明も、まず精神文化の基盤として物質文明が発達し“衣食”がそれほど労苦することなくして得られる如き起訴状態をつくり置くべき必要から、先ず、西欧のイザナミ文化が先に出発することが、『古事記』に録されたるイザナギ・イザナミの魂の交合による天地創造の物語に秘かに示唆されているところである。そのようなイザナミ(波の文明-物質文明)の先行は、結局は、古事記神話のおいては沫島(あわしま)を生み蛭子(ひる子)を生んで、“本当の人間”の文化とならずして「流し棄てつ」と象徴的に書かれているのである。そして『古事記』はそのイザナミの支配する物質文明が黄泉国(よもつくに)と称せられて、結局、人類の全滅死にまで行きつく運命をもつものとして、その世界を支配する“神”であるところのイザナミ命を、『古事記』神話は黄泉大神(よもつおおかみ)という名称をもって呼び、「蛆たかり蠢ぎて」その全身が雷神に蔽われたる姿にて描き、更に死の軍勢(よもついくさ)-黄泉軍)を引率して、霊の大神なるイザナギノ神を追撃して来るのである。ここにイザナギノ大神はそれを十拳劔(とつかのつるぎ)をもて防ぎ給いつつ、尚のがれて黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本まで来られた。”比良“は昼の転であり、黄泉(よもつ)は暗津(やみつ)の転であり、”暗”の軍隊の急造によって愈々、“暗”が昼の国―光の国に襲いかかる”暗黒”との決戦となるのである。

 これはまことに石油戦争の預言であるのである。アラブの石油減産は吾らから”光”を剥奪して暗黒を地上にひろげることになって、暗黒による世界制覇が実現せんとして吾らに迫って来つつあるのである。

 その時、光の国を象徴するイザナギノ大神は如何にせられたかというと、『古事記』の神話は、『その坂本なる桃の実を三つとりて、待ち撃ちたまいしかば、(黄泉国の軍隊は)ことごとく逃げ返りき』という風に説いているのである。今ほど「坂本なる桃の実」をもって、暗黒をひろげることによって世界を征服せんとするアラブる神どもを鎮圧して、もとの如く、この世界に光を取り戻さねばならぬのであるが、そのためには「坂本なる桃の実」を必要とする時が来たのである。

 「坂本」とは「栄えの元」である。「桃の実」とは”桃太郎”の神話の中に出て来る生命の河の上流から流れ降って来るところの”生命の樹の実”の哲学即ち『生命の実相』哲学である。その“桃の実“によって”桃太郎”は生まれ出て、鬼が島即ち死の国(黄泉国)を征服し、栄えの国を回復することができるのである。

 今、この日本の国(イザナギノ大神を以って象徴する霊的文化の国)を救うには生命の実相哲学の三つの果実が必要である。それは

「物質、物質に非ず、これを物質という」―即ち天地一切のものは神より出でたるものであるから、”勿体ないもの”であるということを悟って苟くもこれを浪費したり、遣い棄てしないことである

アラブる光を消さんとして吾が国に迫り来つつあるアラブる”暗の国”の軍隊も、実は“暗の国”の軍隊にあらずして“光の軍隊”であり、今まで光を吾らに与えたところの恩恵者であり、これからも、吾々に永く“光”を供給してくれる“光”の友邦である―という実相を見てこれらの国々に真に誠意と感謝の意を以って接することである。

今まで神の生命の延長として地上に生まれ来たろうとしていた胎児を暗から暗に葬ったる吾らの過ちと罪とを彼ら胎児の霊に詫び、彼らの暗黒なる冥界から救い出して“光の世界”にその霊を導き出してお詫を完うするために、国家的な行事として人工流産児霊大施餓鬼を行なうことである。それは築地の本願寺でやってもよいのである。

 アラブがイスラエルとの戦争を契機として今まで石油の形で送って来ていた“光”を我らに送ることを減じ、われらの生活を暗黒にしようとし、現に大いに暗黒の度を加えようとしていることは、「類は類を招き」「与えたものが自分に返ってくる」という、実相哲学(桃の実)から判断するならば、実はアラブが我々に“暗”を与えたのではなく、今まで多くの胎内に宿った聖霊を殺して“暗の世界”に送ったことが、自分の世界に撥ね返り、反映し来っているのである。戦後実に五千万人の胎児の祖霊が暗から“暗の世界”に葬り去られているのである。せめて速かに、堕胎公許の優生保護法を改正して「再び胎児の聖霊を“暗の世界”に葬るようなことを致しません」と懺悔の実をあらわすことが、“光”をこの日本に取戻す道である。

 かくて、この“桃の実”をもって“暗”の国に光をとばし、再び“暗”をつくる過ちを繰返さなくなった時、日本国は再び、石油より来る“光の資源”は勿論、石炭の液化技術の開発、風力や海水の落差の利用、太陽熱や地熱の利用は勿論のこと、原子力より得られる“無限の光”をも安全に公害なく利用し得る技術を開発して日本全土を無尽の光をもって照り輝かし、過去の最も豊かなりし頃の日本よりも、尚一層、光輝く地上天国をこの土に実現し得るに至るのである。今はその新しき地球文化の黎明である。光はまさに昇ろうとしつつあるのである。
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