上図の地図は大正11年7月の大阪市此花区西九条界隈の地図であります。
勿論、雅春先生の歩まれし歴史を御存知の方はすぐにわかるでしょう。小学校の最初に通われた蘆分尋常小學校が右下にあります。
左側にその小学校の卒業されました春日出尋常小學校があります。ピンク色に囲った部分が住まいされた場所ですが、西九条だけでは検討がつかず、電話帳で石津鉄工所で調べてみましたが、わかりませんでした。
明治42年から大正12年まで職業別など13冊を見ましたがわかりませんでした。
※昨年の12月16日の最終検証でほぼその箇所を特定させていただきました。
上記(右上)にある職工學校というのが後の西野田職工学校です。摂津紡績にお勤めの時に夜間学校に通われていました。その時代も同じ西九条に住まわれていました。
地図を見られて大阪人だったら、疑問に思われるでしょう。当時はまだ大阪環状線ではありません。その為に黒太の線が当時市電が走っていた路線図となっています。下に安治川がありますが、自宅からであれば安治川隧道という日本で初めての沈道トンネルがあります。戦時中(昭和19年建設)の建設なので雅春先生の市岡尋常中學校に通われた通路が右側にある中之島を経由して行かれたのか不明ですが、たぶん冨島の渡し船というのが近くにありましたので、それに乗船されてかよわれたのではないか。芦分尋常小學校の近くから、大回りして通っておられました。
※図の右下が富島渡し船
『理想世界』昭和48年9月號
十二日のことば
その時分、市岡中学に行くのには四キロくらい歩くのでした。安治川を超える時だけ、渡し船で渡っていくのであります。伝馬船のような小さな和船で、一ぺん渡るのが二厘であり、その頃「寛永通宝」と鋳造された中央部に四角の孔のあった二厘の通貨があったのです一厘は一円の千分の一であります。
(大正九年に無料化)
現在でも大阪では渡し船は8カ所残っています。
地図をダブルクリックすれば大きく鮮明になりますので、ご確認お願いします。
上図はその富島の渡し船跡の位置です。現在の地図から
また、摂津紡績に通われた通路は大阪市電で西九条から玉川4丁目、そこから南下して芦原橋までだと推測できます。
明治40年頃の市電路線図
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