昨日は京都へ行きました。いつものように観光客で賑わっています。「ごった返した」ような賑わいです。「ごった」というのは混雑しているという意味ですが、それに相応しい人波です。

 

さて、そんな混雑した人通りから離れ、河原町から鴨川の田端通りを歩いていました。

丸太町通りを歩き、古本屋を何カ所か散策して、随分と変わったなと思いながら歩いていました。
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蒲生君平の寓居跡が平安神宮の北側にあります。そこから天王町まで直ぐ近くです。「生長の家京都教化部」に立ち寄って、少しだけ話しました。雰囲気が何か違うのは私の考えの「雰囲気」とは当然違った。何故、立ち寄ったかというと『生長の家京都光明化五拾年史』があるかどうかでした。昭和57年に作成された本ですから、無いのは當然かもしれません。
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ただ、古い信徒さんがお持ちでしたので内容は見させていただきました。また秋月暁さんという人の本を購入していましたので、京都教化部発行の本で少し内容を調べてみたいと思っていました。

 

また『甘露の法雨』ストラップもありましたので、購入しました。

 

さて、それのある場所を知っていたので、白川通りを北上して、今出川通りを出て「竹岡書店」に行きました。事前に知っていたので、そこで購入しました。二冊ありましたので、その内一冊を購入。
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後二條天皇北白河陵・後二條天皇皇子 邦良親王墓も京都大学理工学部の橫にありましたので参拝しました。詳しくは後日記入致します。
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横井小楠殉節地は寺町通りの下御霊神社前です。
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上図二枚は革堂です。西国三十三カ所の一つです。

 それは、西日本でも最も教勢が発展した所でありました、また戦後間もない頃には西日本の拠点として京都が選ばれています。勿論戦災ということを考えて当然であると思います。

 

 最初に『甘露の法雨』の折本を発行されたのも京都です。初代支部長に小木虎次郎博士でした。また石川芳次郎氏は生長の家の教えを松下幸之助に伝えたことが縁となっている。

 

 

【やがてこの「甘露の法雨」の詩は、昭和十年六月、当時京都に於ける熱心な誌友である工学博士小木虎次郎氏が「甘露の法雨」の詩を『生長の家の歌』といふ詩集の中にのみ収めておいては、功徳のあることを知らない人が多いから、ハッキリとこれは聖経であると明示して、折本型の経本として発行すれば、功徳を受ける人が多

いであらうと、生長の家京都教化部から経本式折本として発行されることになった。

 かうして『甘露の法雨』が経本になって頒布されるや、陸続として功徳を受ける人が現はれた。さらには、それを携帯するだけで、交通事故に遭ひながら微傷も負はなかった人が出て来たりもしたのである。そこで京都の教化部ではこれを京都のみで独占すべきものでないと、その出版権を昭和十一年末に、光明思想普及会に移すことになったのである。その後聖経『甘露の法雨』は、さらにその功徳を発揮して、多くの人々をさまざまな人生苦から解放して行ったのであるが、その功徳の及ぼす範囲は、単に個人だけでなく、後に述べるやうに、あの大東亜戦争の終結には国家の危機を未然に救ふ働きをも果すまでになるのである。】

 

さて、その後、再び鴨川に戻り、河原町通りを南下しました。河原町丸太町を御所に向け歩いていますと、古本屋があり、そこに『神靈界』九冊が揃っていました。復刻版でしたが、以前は二万円とかしていましたが、九千円でしたから、現在古本屋での最安値と同じでしたので購入しましたが、帰宅まで、重たい荷物で大変でした。

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横井小楠は熊本藩士。

名前の小楠は「楠木正行」にあこがれて、小楠公という名前をとってつけたとされています。

 

明治2年(1869年)15日午後、参内の帰途、京都寺町通丸太町下ル東側(現在の京都市中京区)で十津川郷士ら6人組(上田立夫、中井刀禰尾、津下四郎左衛門、前岡力雄、柳田直蔵、鹿島又之允)の襲撃を受けた。上田が小楠の乗った駕籠に向かって発砲し、6人が斬り込んできた。護衛役などが応戦し、小楠も短刀1本で攻撃を防ごうとするが、暗殺された。享年61。小楠の首は鹿島によって切断され持ち去られたが、現場に駆け付けた若党が追跡し、奪い取った。

 

殺害の理由は「横井が開国を進めて日本をキリスト教化しようとしている」といった事実無根なものであったといわれている(小楠は実際には、キリスト教が国内に入れば仏教との間で争いが起こり、乱が生じることを懸念していた)。しかも弾正台の古賀十郎ら新政府の開国政策に不満を持つ保守派が裁判において横井が書いたとする『天道覚明書』という偽書を作成して横井が秘かに皇室転覆を企てたとする容疑で告発するなど、大混乱に陥った。紆余曲折の末、実行犯であった4名(上田・津下・前岡・鹿島)が明治3年(1870年)1010日に処刑されることとなった。なお、実行犯の残り2人のうち柳田は襲撃時の負傷により明治2年(1869年)112日に死去し、中井は逃走し消息不明となっている。その他、実行犯の協力者として3人が流刑、4人が禁固刑に処されている。