歌詞:「小学唱歌集」(1881年)

 

蝶々 蝶々 菜の葉に止れ

菜の葉に飽たら 桜に遊べ

桜の花の 栄ゆる御代に

止れや遊べ 遊べや止れ

 

おきよ おきよ ねぐらの雀

 朝日の光の さきこぬさきに

 ねぐらをいでて 梢にとまり

 あそべよ雀 うたへよ雀

 

1947年以降の歌詞

 

ちょうちょう ちょうちょう

菜の葉にとまれ

菜の葉にあいたら 桜にとまれ

桜の花の 花から花へ

 とまれよ遊べ 遊べよとまれ

 

歌詞(日本語)

 

 

ほたるの光 まどの雪

 書(ふみ)よむつき日 かさねつつ

 いつしか年も すぎのとを

 あけてぞけさは わかれゆく

 

とまるもゆくも かぎりとて

 かたみにおもう ちよろずの

 こころのはしを ひとことに

 さきくとばかり うたうなり

 

つくしのきわみ みちのおく

 うみやまとおく へだつとも

 そのまごころは へだてなく

 ひとつにつくせ くにのため

 

千島のおくも おきなわも

 やしまのうちの まもりなり

 いたらんくにに いさおしく

 つとめよわがせ つつがなく

 

現代では戦後教育の爲一番しか歌われない。

 

童謡・唱歌『ちょうちょう(蝶々)』は、明治維新以降の日本の音楽教育において初となる音楽教科書「小学唱歌集」(明治14年)上で初めて日本で広められた(原曲は外国曲)。

 

江戸幕府15代将軍・徳川慶喜が1867年に大政奉還を行ってから5年後の1872年、学制が発布され、小学校の一教科として唱歌(音楽の授業)が定められた。

 

しかし、当時は音楽を教えられる教師もおらず、十分な音楽教材や設備もなかった時代。実際に音楽(唱歌)の授業が行われることはなかった。

 

アメリカへ伊沢修二を派遣

 

それから2年後の1874年(明治7年)、アメリカの教育体制を学ぶべく伊沢修二(いさわ しゅうじ/1851-1917)がアメリカへ派遣された。

 

帰国した伊沢は1879年、音楽教員を養成する日本初の機関「音楽取調掛(のちの東京音楽学校)」を設立。日本における音楽の教育体制は着々と整えられていった。

 

日本初の音楽教科書「小学唱歌集」

 

そしてついに1881年(明治14年)、日本初となる「小学唱歌集」が刊行された。選曲にあたっては、アメリカにおける音楽教育の第一人者ルーサー・メーソンの助力を得て、『ちょうちょう(蝶々)』、『蛍の光』、『むすんでひらいて』など、外国曲のメロディに日本語の歌詞をつけた和洋折衷の楽曲が数多く取り入れられた。

日本で最初に学校に取り入れられた唱歌は「ちょうちょう」がありますが、戦後にGHQ政策により変更されました。
そんな一つでも私たちは戦後における弱体化政策が日本で行われたことに気が付くことが必要です。