前回のブログで一燈園同人の谷野捨三氏の文章を『光』誌から引用させていただきました。

そこで気になったのが、雅春先生との出会った日付であります。谷野氏も書いて居られるように不確かな情報もあり、記憶を辿ったということであります。

 

 青年谷口雅春さんが、鹿ヶ谷一燈園を来訪されたのは、記録がないので、正確には不明ですが、種々の情況から推定して、大正十一年一月の或る日であったと思います。

 

 時に数歳は天香さん、五十一歳、谷口さん、三十歳、谷野、二十六歳であった筈。

 

谷口「私は谷口雅春と申す者で、最近まで大本教におりましたが、感ずることありまして、大本を去りました。天香先生の御本を読んで大変感動いたしましたので本日御教え頂こうと思い、お訪ねいたしました。よろしく」

 

さて、日付についてですが、大正111月の或る日と書かれています。

『生長の家五拾年史』によるとその当時は東京浅草区小島町にある飾職人の家の二階に移られ、そこで谷口雅春先生は『聖道へ』の本に収録されてゐる宗教論文を執筆されるのである。その頃の谷口先生夫妻の生活は貧しく厳しいものであったといふ。

 

と記入されているように、京都の鹿ケ谷に『一燈園』に戻られる生活的な余裕があったかどうかであります。

 

また大正11213日には『聖道へ』東京・新光社より出版されている。京都に行かれる余裕がなかったように思える。

 

そこで、『生長の家五拾年史』の記載で日付は少し前となるが、まだ「大本」に居られる時であるが

 

大正108月に西田天香著『懺悔の生活』を読み京都鹿ケ谷の一燈園を訪問、一燈園の同人と共に托鉢をする。

 

と記載されている。また年齢も大正108月ならば谷口雅春先生は30歳です。また『光』誌の大正109月号の「一燈園だより」には『懺悔の生活』が出版されてより、一燈園に訪れる人が多くなったことが書かれてをり、その中で「宗教家としては大本教にあって色々深い研究と体験を重ねてゐられる谷口正治さんがきて呉れて矢張托鉢までして五日間共禱された」と記載があります。

 

ここから、あくまで推定ですが、まだ「大本」を去られていない大正108月であったように思います。『懺悔の生活』を読んで大変感動したと記載しているように、『生長の家五拾年史』においても、西田天香著『懺悔の生活』を読み京都鹿ケ谷の一燈園を訪問と記載している。符号することを思えば、間違いないのではないかと思います。つまり、訪問された時は「大本」に在籍されていた時ではないか。

 

その鹿ケ谷の一燈園を訪問したことは「出口王仁三郎」著の『靈界物語』にも皮肉に記載されている。

 

「鰐口邪冬が一等厭へ行って」

 

 

以上、私のあくまで推論ですが、検証してみました。違いがありましたら、教えて下さるようお願い致します。