磐之媛命は平城山に登ったか?少し検証致します。この検証するにあたり、この付近を地形の凹凸や距離観など様々な知識が必要です。
 それにこの道は奈良街道ともよばれ、平城山(ならやま)という歌まであります。御陵やその遺跡、奈良市内にもすぐ近く、聖武天皇御陵や光明皇后の陵墓もあります。そこは北へ向かってなだらかな坂道となっています。それを登り切ると黑髪山(平城山)となります。
奈良山と書く人がいますが、それは間違いです。正式には平城山です。(JR平城山駅(ならやまえき)が西側にあります)

 

 管理人様(谷口雅春先生に帰りましょう)が下記のような事を記入しているが、これを読んだ瞬間に疑問が湧いた。山に登ったのか?という疑問です。私はその平城山付近を探究するために何度か訪れていますので、その間違いを説明致します。

(ⅲ) 仁徳天皇の皇后が、奈良山に登って詠んだ歌  

 

つぎねふや 山城川を

宮上り 吾(わ)が上れば、

青土(あをに)よし 奈良を過ぎ

小楯(をだて) 大和を過ぎ

吾が 見が欲(ほ)し国は

葛城高宮

吾家のあたり。 

 

(山また山の 山城川を

 御殿の方へと 私が遡れば、

 うるわしの 奈良山を過ぎて

 山の続く 大和を過ぎて

 私の 見たい所は

 葛城の高台の御殿 

 故郷のあたりです。 

 

  これは石之日売命(磐之媛命)は嫉妬深いといわれ仁徳天皇が八田皇女(やたのひめひこ)を宮中に入れたため、それを知った磐之媛命は宮中に帰らず(木国へお出掛けの帰途)、今の山城の上狛あたりではないかと推測致します。そこに下り立った。それは大坂の堀江から船で登った爲です。この辺りから陸上で南下しますと、元正天皇陵や元明天皇陵があります。ちょうど、このあたりから少し北側(現在の町名でいえば州見台や梅美台付近)からなだらかな斜面になってきます。そこが楢(なら)の山の口であると推測します。平城山(ならやま)は想像するような山ではなく、なだらかな坂です。

 私はこの平城山を検証するために、この付近を探索したことがあります。この付近は明治時代に大仏鉄道というのが走っていたのです。現在の奈良駅から加茂駅までですが、その坂を蒸気機関車を走らせるために当時は四苦八苦したようです。この平城山というのは奈保山、那富(なほ)山、黑髪山、那羅山とも呼ばれています。この山の頂上付近に聖武天皇皇太子 那富山墓があります。

 

ただ、山というより小高い丘のような感じです。平城山に登った時の歌と記入していますが、那良の山の口が正解のように思います。またこの平城山の南側は奈良ドリ-ムランドが開発したため、昔の面影が残っていませんが、西側には應神天皇皇子大山守命 那羅山墓)があります。この辺りまで黑髪山と云われています。

その名前の由来は

 

「開化天皇の孫に、狹穂彦と狹穂姫という兄妹がおられ、妹の狹穂姫は、第十一代垂仁天皇の皇后になっておられた。天皇位を狙っていた狹穂彦は、妹の狹穂姫に、謀判に荷担して天皇を殺すようそそのかすが、天皇を愛していた狹穂姫は天皇を殺すことが出来ず、企てが露見する。天皇は狹穂彦討伐の軍をおこし、狹穂姫は兄の軍に走る。その時姫はみごもっていた。妃を愛する天皇が、攻めあぐんでいるうちに、姫は「稲ゆぎ(稲を積んで造った応急の城)のなかで、皇子を産まれた。姫はその皇子に「誉津別命(ほむつわけのみこと)」と命名して天皇方にお渡しし、自らは、追手から逃れるため、黒髪を切って山に埋め、古い衣をまとって逃去したという。皇后が黒髪を埋めたところから、この山が黒髪山と呼ばれ、稲城の古事から、五穀の神「保食の神」を招請し、転じて稲荷になったと伝えられる。」

 

 さて話は違った方向へ行きましたが、磐之媛命の話に戻します。

 

 山代から廻って、那良の山の口(平城山のふもと北側)に着いた時、こう歌を詠みました。

 

「つぎねひや 山代河(やましろがは)を 宮上(みやのぼ)り 我が上れば あをによし 那良を過(す)き 小楯(おだて)を 倭を過ぎ 我が見が欲し国は 葛城(かづらぎ) 高宮 我家(わぎへ)のあたり」

 

平城山に登った時に歌ったものではない。その証左として

 

このように歌って帰りになって、しばらく筒木(つつき、綴喜、筒城)の韓人(からびと:百済からの渡来者)の奴理能美(ぬりのみ)の家に泊まりました。

 

その時の歌が

山代の筒木の宮に 物申す 吾が背の君は 涙ぐましも

 

この筒木と云う場所は現在の同志社大学京田辺キャンパス内にあるといわれている。

 京田辺キャンパス及び多々羅キャンパスといわれている。

多々羅都谷は、継体天皇が511年から518年に置いた筒城宮が地名の由来といわれる。

 

 この那良から14km程あります。歩いては4時間程かかるのではないかと推測出来ます。

 

小高い山にわざわざ登って、引き返すよりその手前で詠んだと云う方が正解のような気がする。

 また、現在の御所市にある葛城の高宮にも行ったことがありますので、その風景が浮かびます。

 管理人様には深く感謝申し上げたい。他にも少し違うのではないかと思われる箇所があったが(後日検証します)、古事記に造詣が深い管理人様だから間違いはないと思います。低レベルで推敲出来ない私ですからお許し戴きたい。

https://www.mapion.co.jp/f/cocodene/confirm.html?
矢印あたりが頂上です。
登り坂は地図の北あたりから始まります。町名に奈良坂町という町名があります。