宗教家というのはとかく自分の間違いを認めない。それと同じように、相手の間違いを容赦なく打ちのめしたいという願望にかられる。自分が絶対正義という観念があまりにも強い爲、自分以外の考えは間違いであるという。

 

絶対正義なんて世の中にあるのであろうか。例えば「生長の家」の信仰をしていると錦の御旗のように「雅春先生はこのようにおしゃって居る」というコトバを聞くことがある。確かにそうだろうが、それで相手が云う事を聞くのであろうか。言葉に於ける正義とそれを実践して使用する場合は異なることがある。

 

ある實例がある。

生長の家の熱心な信徒がいる。それは誰もが認める「生長の家」の申し子のような人である。だが「熱心」のあまり、兄弟に熱烈に勧誘するのである。

それ自体は悪くはないが、「生長の家」以外の信仰は認めないのである。だからいつも「生長の家」の信仰の話しかしない。そのために、飽きられてしまうのである。冗談も聞こうとしない。だから、兄弟からは疎遠となることが多くなる。

生長の家を入信する以前は兄弟も仲が良く、人が羨ましがるような仲であったのである。

現在は高齢となっているが、昔は地元でも有名な美人姉妹であった。それがどうしてそのようになってしまったかである。

 

私は信仰というのは間違いないが、それを押し付けたり、あの人は間違っているから正してやろうと目論見をしていると、相手に見透かされて「私が間違っているから正そうとしている」「故憎たらしい奴め」と反対に怒りをかってしまうのです。

 

講演とかすれば「素晴らしい講話」を行っても、兄弟の仲が悪ければ調和とはいえない。また、誰かを恨んだりしていると、必ず見透かされるのである。

 私も以前は自分のブログで正義を振りかざしていたが、反対にそれも間違いだなと気付くことがある。相手に「これは間違っています」というのは正しいが、相手に反省させるまで言い続けようとかは、相手を懲らしめてやろうという気持ちが働いてしまうのです。

そうなると、観世音菩薩として拝めなくなるのです。いつしか「憎しみ」のみが残ってしまうのです。