トキさんと破邪顕正さんとの論争ですが、下記の文章をどう捉えるかということです。

私も破邪顕正さんと同じように「雅宣総裁=左翼として考えています。確かに宗教問題16で「生長の家が政治の中で目指したものと谷口雅春・初代総裁の教え」の中で現総裁を左翼として考えていない。というコトバをはっきりと書かれています。ここをどう考えるかであります。トキさんの文章をまずは引用させていただきます。

 

 

【ここで、本流復活派の人でも異論のない証言者として谷口貴康先生の御発言を引用したいと思います。言うまでもなく、谷口貴康先生は谷口雅春先生のお孫様ですし、教団で長年奉職され、内部の事情も谷口家のご様子も熟知されています。明るく、親しみのある人柄で人望も厚く、ご在職中は終始、谷口清超先生を助けてこられました。しかし、谷口雅宣先生の教義の歪曲には堂々と対応され、結果として教団の退職に追い込まれても節を曲げなかった硬骨漢です。ご退職後は田舎で清貧の生活を送られ、同時に、聖典裁判では教団に不利な証言をあえてされるなど、谷口雅春先生の教えを忠実に生きる姿勢を貫かれています。一連の問題では、最も事情をご存知で、最も信頼できる証言者だと言えるでしょう。

 

 雑誌「宗教問題 16:検証、日本の“宗教右派」で谷口貴康先生は、インタビューにお答えになり、この左翼思想説を否定し、単に谷口雅宣総裁が自己の主張を通そうとした結果である、と言うような趣旨の発言をされています。今、手元にその雑誌がないので記憶で書いていますが、大意は違いはなかったと思います。】

 

 それではどのように捉えてきてあの発言となったのかは御本人しか分からない部分があります。ただ雅宣氏が高校生時代は愛国少年であったことは事実です。皆さんが云われているように留学から変わったのは確かですが、これは初代の反抗心のようなものが蓄積されたものであると考えています。

 

 ただ、生長の家本部へと奉職するときは「安東先生には反抗的な文章」を講師会報で見ましたが、ただ愛国的な本を先駆けて絶版にする処置は左翼とみられても致し方がない。

 

 でも、兄弟との思惑と私達のように外枠で視るのも違います。だから、そのあたりをどのようにとらえるかであります。私も谷口貴康先生の気持ちもよくわかるので、複雑になります。

 

 そのわかるというコトバですが、兄弟の多い私は長男に大変悪意を抱いていました。親不孝のことばかりして、母親の葬儀にも参列しなかったという、外からみると酷いものです。ただ母親は自分を責めていましたので、それが理解出来たときに長男に対して、私が責めるということは止めました。

 

勿論、それに対しての兄弟の確執があるのも事実ですが、両親の躾の問題と重なっていることも事実ですので、そのあたりをどう考えるかであります。だからこそ理解が出来るのであります。

 

 ただ、今年の五月に直接にお会いさせていただきましたが、それで谷口貴康先生の気持ちなどわかりません。またここで「このように云っていた」とか書くのは一部の範囲しか掌握していないので、全相ではありませんので、そういうことを書くのは控えるのは当然であります。だからトキさんは出来れば、『宗教問題』という雑誌のみで、それが全相であるようなことは少し無理な感じがします。

 

 ただ、こうして雑誌に出回ると、そう解釈されるのも事実ですので、注意する必要があります。

 

 さて、これは度々掲示板で注意喚起を行っているのですが、本人はそれほど悪意がなくても、その発言内容が「内容との食い違い」「印象操作」など多くの問題が発生することも事実であります。愛国掲示板で江副さんと云う人が書き込みを行ったら、それに対して異論、同調、とボロクソに発言する人がいます。

 

 でも、私もつい最近、そのようにして吊し上げまでやられていますので、そういう事は行ってはいけないと感じています。しかし、そういう人に限って逆の立場になると黙秘してしまうので、それもおかしい限りです。

 

 「生長の家」の信仰を持つ人間が悪意や軽蔑な発言をネットで繰り広げてはならないことを痛感致します。もっと愛ある言葉を使用するようにすればいいのに、どうしてそうなるのか不思議です。

 

 ただ、最初に書きましたように、一部の発言や書き込みのみでその人が間違いだとすることには違和感を感じております。ネットではそういう一部の発言のみを捉えて、「貴方は間違っている」という書き込みは反対に間違って解釋します。

 

私がそういう「印象操作」に出合い頭に当たったのは「山ちゃん1952愛読者」と云う名前で「印象操作」をされたことです。よく考えてみると、その人は私のブログの一部しか読んでいないのです。

 

しかし、名前を見ると良く読んでいる印象なんですが、私から見ると、ほとんど読んでいないと感じたからであります。

 

例えば、「破邪顕正さん・大好き」と書いてブログで当本人を批判すれば、どのような印象をもたれるかであります。「破邪顕正さん」自身はこの言葉はイヤミでしかないと理解するでしょ。私もそう思います。

しかし、この「破邪顕正さん・大好き」と書いている以上、間違いない文章だと錯覚してしまうのです。

 

間違った解釈をしてしまうのは、この言葉で破邪顕正さんのことをこの人は理解出来ている人だと、勝手に脳が反応してしまうのです。大好きと書いているからなんです。私の「山ちゃん1952の愛読者」と同じです。

 

それが「印象操作」の恐ろしい所であります。とりわけてこの言葉で引っ掛かるのは、人との対比です。

 

押し売りがよく利用する「これはいい製品なんです。隣の人も購入してくれました」と隣人との差別化というコトバです。

 

また、断定的に使うことにより、私の言葉は間違いないのだと錯覚させることです。大好きなんだから間違いは書かないと勝手に理解されるのです。だから批判しても、少し理解するように脳が反応するのです。

 

例えば、ネットで使われる、アンケ-トも採用したことがない人間が「あなたの事は皆んな反対しています」というコトバです。その皆んなとはどの範囲で何人の人に聞いたことかを示さないで「皆んな」と書いてしまう。

または「多くの人」とかもそうです。

 

さて、私はつい最近このブログで当初、私の書いたことに反論された人から手紙を戴きました。まずはネットで失礼ながら御礼申し上げます。

 

さて、この方は私の書いた『谷口雅春先生著作年譜一覧表』を購入された人ですが、新編『生命の實相』に異論を唱える、私に反論されていました。

これは至極当然の考えであります。折角出版された御本をどうしてそんなに貶すのか、分からないのです。

 

ただ、そういう意見は理解出来ます。ただ、私は新編『生命の實相』も出版されてもいいと思うが、『生命の實相』頭注版のオンデマンド版も出版されているのだから、それも出版された方がいいのです。

そうでないと、今迄に『生命の實相』頭注版に掲載されている何頁の何行の箇所の文章にこのように書いています。そういう谷口雅春先生の御本だけではなく「谷口清超先生」とかの引用文章で新編『生命の實相』ではまったくどの箇所かはわからないのです。それらも版権があればいいのですが、版権もないのに、勝手に変えてしまったという印象がある。

 

愛のある変更なれば諸手を挙げて賛成するのですが、そうではない。今後のことを考えると不安があるのは確かです。もう少し広範囲に意見を聴くこと、「万機公論に決すべき」と「五箇条の御誓文」の一条に書かれているように出来れば、そのようにして欲しいものです。

 

だから、周辺に注意しながら温かい言葉を掛け合うことこそが、掲示板が和やかに出来る要因だと感じています。確かに反論に対しても出来る限り深切に対応するようにすればいいと思っています。