谷口雅春先生の大本時代で哀しい短歌を詠まれている時期がある。それは『生きる道』の中の

309頁にその理由をお書きになっておられます。

【國家のため、君のため、忠君愛國のためになる運動と思って投じてゐました大本敎がさうでないと云ふことになりますと、私は生き甲斐が感じられなくなって來たのであります。もう人に會ふのも嫌な日が續いて來ました。

 身體は弱くなる。家内は心臓病にかゝる、私は全く生き甲斐のない生活を送ってゐました。大本敎の神は神罰として人間に禍を與へたり、火の雨を降らしたり、病氣を與へたりすると、筆先に書いてありましたが、私はもうさう云ふ神罰の神、復讐の神を信じなくなったのであります。病氣は神が作らない、自分の心が自分の病氣を拵へ、不幸を拵へるものだと云ふことが段々はっきりしてまゐりました。

 三界は唯心の所現なのだ。ロ-マの都に火をつけてその焼け滅びる有様を見て饗宴にふけるネロ皇帝のやうな神は無いのだ。私の思想はやゝ明るくなって來ました。この思想を小説に書いてあるのが『神を審判く』といふ小説であったのであります。それからこの思想を『聖道へ』といふ論文集に書きました。この論文集は、唯今でてゐる『新佛教の發見』と云ふ論文集の前半を占めてゐるものであります。

 

 私は再び生き甲斐を發見し始めたのであります。此本の中にに生長の家の思想の芽生えが盛られてゐるのでありますが、その頃關東大震災に逢ひましたことが、私に生活の轉機を與へてくれたのであります。一切のものが焼けた。私はその時物質ならざるものに一歩心の眼が開いたのであります。その頃得ましたホ-ムズの英書が、私に三界の唯心の人生觀を現實生活に應用して、心で人生を支配するメソッドを敎へてくれたのであります。

 唯今發行されてゐる『人生は心で支配せよ』と云ふ本は實に此のホ-ムズの本を根據とし、私の實際上の體驗から殆ど原型をとゞめなくなるまでに改竄に改竄を加へたものなのであります。斯うして私は、人生を心で思ふ儘に支配する方法を知ったのでありました。

 今迄、人生の奴隷であった私が人生の支配者である悦びが湧いて來ました。

 私が眞に生き甲斐を感じながら人生の進軍喇叭を吹きはじめました。】


生き甲斐というのは心の持ち方と、國家のため、君のため、忠君愛國のためになる運動でなければならないことをお書きなられています。そこを見失うとどうしても自分の爲だけの運動となり、自分だけ幸せでいい、幸福というのは自分だけという、個人主義となるわけです。そうなると本来の生き甲斐などなくなってしまってしまうのです。

「自然讃歌」でもそうですが、これは個人の受け取り方、持ち方により変わってしまうのです。人により個人の考え方と全く異なることがあるのです。これも謂わば、個人主義のようなものであって、他人を幸せにするようなものではない。自然を讃へて、他人が幸せになったなど聞いたことがないのは、そのことであります。

勿論、病氣が癒されるのも、その人が今後進んでいく進路を與へてくれているわけでありますから、その進路を左右どちらかにきるのは、その人がどれだけ「他人の幸せ」を導いたかということであります。

ただ、その場合には國家の爲に本当になっているかどうかが問題であるのです。団体でそこが繁栄しても、そこが國家の繁栄に逆方向に向けていると、心が荒んでくるのです。