以前にあまむし庵様のことで記入させていただきました。
今では手紙とネットでの様相でお元気なことを伺っております。前の文章を修正して、改めて記入させていただきます。

http://56937977.at.webry.info/

 

  

 私とそのあまむし庵様とは古くからの付き合いである。

結婚式の司会をお願いした。

 

 勿論、尊敬する第一人者である。今は私の家からは遠くに引越しされている。

泰然自若のなかでも祈りの生活をされている。既に合わない年月も遠く…

 

自然の大地の中でどうされているのかいつもそう思っています。

近畿でキャラバン隊を編成して駅前で街頭演説を実施しました。

その目的は優生保護法や憲法改正です。京都、滋賀、奈良、和歌山と縦断しながら、優生保護法を訴えて行くことを行っていました。

 

キャラバン隊として全く知らない土地です。教化部で名簿を頂き、その地域において講演会を行ないました。当日の急なこともありましたが、家庭訪問をして、その夜に行う講演会を誘う。

当日の講演会の誘いです。それでも20名近くの人が参集してくださったことを思い出す。

 

〇〇くん、「すごいことするね」あまむし庵様にそう言われたことが鮮明に思い出す。

 

 

 そうした取組など様々なことを青年会活動でしてきました。当時の青年会だから『百万運動』だけだと誤解する人はおおいですが、神社での神想観や飛び込みの家庭訪問、募金運動、御陵の参拝、

いろんな事をしていました。

 

私はジュニア友の会で誌友会とレクレーションなど行ないました。

 以前にも書いたが、当時ジュニア友の会では毎月20名の参加者がありました。

 

あまむし庵様と最後に合ったのは10年前です。梅田駅前でいろいろな話をさせていただきました。それから手紙などのやりとりはしていますが、こうして『谷口雅春先生著作年譜一覧表』を作成させて頂きましたのも、あまむし庵との45年前からの付き合いをさせて頂いた賜物であります。あまむし庵様がおられなければ谷口雅春先生の著作の蒐集もしていなかった。

 

 

私は現在、生長の家を信仰させていただくのもあまむし庵様のお陰であることは忘れたことはない。

最後にあまむし庵様の下記の文章を掲載します。

すみませんあまり詳しい経緯を書けなかったことをお許し下さい。

 

 

 【どうも「菩薩は何を為すべきか」の第九条に書かれている部分だけに焦点が集まりがちなので、どうしても間違った解釈がなされるのかもしれません。同本の第五条に大変重要な記載があるので、平行してご紹介します。ちょっと長い引用となります。

 

 《第五条 生長の家の各員は、人間神の子の自覚が、日本民族が悠久の昔より世々代々承け継ぎ語り継いできた「命(みこと)」の自覚にほかならず、生長の家立教の使命が同時に日本建国の理念の現成にほかならない事を明らかにすべきである。日本民族は存在の究極を、一切のものの生成の根源たる普遍的絶対者を、天之御中主神として把握し、その「中(みなか)」への帰一とその「中(みなか)」の展開、即ち宇宙普遍の原理の地上的顕現を日本国家形成の理念とし、天津日嗣(あまつひつぎ)とはこの理念のさながらなる継承以外にはなく、・・・(中略)・・・この理念の継承実現にまします》(谷口雅春・谷口清超共著「菩薩は何を為すべきか」より一部引用)

 

 ここに《生長の家立教の使命が同時に日本建国の理念の現成にほかならない》とあり、さらに《単に自分の祖国たるのみの理由にて日本を愛するのではなく、東洋と西洋との中間に位して一切を生かす大乗の真理国家たる事が日本の理念であるからこそこの国の国体を鑽仰してやまず、・・・(中略)・・・各自互に明確に自覚し合い、その行動の根拠となし合うべきである》(「菩薩は何を為すべきか」より一部引用)とあるように、生長の家立教の使命と信仰の本質は、偏に日本建国の理念の現象世界への完成のためにある事が明確に示されているのです。

 

 《宇宙普遍の原理の地上的顕現を日本国家形成の理念とし、天津日嗣とはこの理念のさながらなる継承以外にはなく、・・・(中略)・・・この理念の継承実現にまします》とあるように、日本建国の理念とは、具体的には「天皇」にあることを明記しています。

 

 これこそが生長の家本来の存在意義なのであります。この日本建国の理念を現象世界に展開するためには、全世界の人々が総て「神の子」であることを明確に解き明かさねばならないのです。それが生命の実相哲学となり、人類光明化運動として全世界に展開しているわけであります。

 

 ただ単に人類光明化運動が単独で存在しているということではないのです。人類光明化運動は真理国家日本建国の理念の全世界的展開運動そのものであるのです。人間が神の子であるという本質に気がつくということは、総ての人間が一つなる親神様の子供であることに気付くことであり、それはただ単に抽象的「神」への帰一に留まらず、その地上的展開の象徴としての、無私なる権威の最高峰「天皇」に対する中心帰一という雛形を、人類は学ぶことになると思うのであります。それが理解でき無理なく受け入れられる時代がいずれ訪れるでありましょう。

 

 その時の準備として、生長の家は立教されたのであります。その立教の使命を初代生長の家総裁は明確に説いておられましたが、二代目になるとその解き方はかなり薄まってしまいました。さらに三代目の現在では、全く説かれなくなり、真逆の思想に変わってしまったのです。誠に嘆かわしい限りであります。どこに生長の家立教の使命がありましょう。組織は分裂し「八ヶ岳教団」と揶揄され、「売り家と唐様で書く三代目」と馬鹿にされるのは、当然であります。

 

 やはり本質的問題の在りかは、生長の家立教の使命がどこにあったのかということを、明確にして来なかったところにあるのです。今一度、生長の家を愛する信徒誌友は、生長の家立教の使命を明確に学び直す時期に来ているのであります。】