昭和4年12月13日 生長の家の原稿を書き始められた
あれ?確かに原稿を書かれたのはその日です。だが、どうして原稿を書かれたのかを記入しなければ、その「13」という意味がぼやけてならない。『生命の實相』19巻にちゃんとご記入されている。それを書かなければ「13」がどうして大切な日なのか、信徒には理解出来ない。
「今起て」とその声はいった。
その神啓がなければ原稿も書いていない。
こういう根本的な言葉がどうして抜けるかと云うと、今の雅宣氏を信じている信徒では理解が不能になるかもしれないが、総裁は「神」を信じていないから、それを省略したいという気持ちが発するのです。俄かには信じがたいが、結論からいえばそういうことです。神啓などこれぽっちも信じようとしない人だからです。
それは総裁が書いた「神を演じる」から始まっている。神というコトバを殆ど発しない。
例えば「神・自然・人間の大調和」と標語ではうたっているが、神ということばは何の役(えき)にもならない飾り物だからなんです。それより「自然」が第一なのです。「自然」さえ唱えれば、神という概念を無くせるような間違った解釈があるのです。
私は今回の大阪北部の地震というのも、体験しながら「自然」というものの、人の命さえ奪うものであると自覚して欲しい。「自然」というのはある面では「美しい」、しかし人間に牙を向け、大洪水や大地震や大津波を起こすのであります。それを「人間」だけの責任に押し付けたりするのも間違いである。
それでは科学文明の未だ発達していない江戸時代ではどうかです。江戸時代の安政の大獄というのがありますが、政治的な問題だけではなく当時の自然災害というのは度々起きている。つまり「安政の大地震」というのがあります。あの時の死者は3万以上ともいわれています。
1854年から1859年の間に
1854年7月9日(嘉永7年6月15日)- 伊賀上野地震。
1854年12月23日(嘉永7年11月4日)- 安政東海地震(巨大地震)。津波でディアナ号遭難。
1854年12月24日(嘉永7年11月5日)- 安政南海地震(巨大地震)。
1855年3月18日(安政2年2月1日)- 飛騨地震。
1855年9月13日(安政2年8月3日)- 陸前で地震。
1855年11月7日(安政2年9月28日)- 遠州灘で地震。東海地震の最大余震。
1855年11月11日(安政2年10月2日)- 安政江戸地震。藤田東湖・戸田蓬軒圧死。
1856年8月23日(安政3年7月23日)- 安政八戸沖地震(巨大地震)
1856年11月4日(安政3年10月7日)- 江戸で地震。
1857年7月14日(安政4年閏5月23日)- 駿河で地震。
1857年10月12日(安政4年8月25日)- 伊予・安芸で地震
1858年4月9日(安政5年2月26日)- 飛越地震。
1858年7月8日(安政5年5月28日)- 八戸沖で地震。
1859年1月5日(安政5年12月2日)- 石見で地震。
1859年10月4日(安政6年9月9日)- 石見で地震。
これは山の破壊などとは全く関係ありません。自然への憧憬もいいですが、「自然」はそうした何の罪もない人に襲い掛かることがあります。自然を讃歌するのもいいが、根本的なことに少しは気付いた方がいいのかもしれない。
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