先日、二度にわたり金剛山に登りました。その中でも二回目は金剛山の最高峰である、葛木神社にお参りが出来たことであります。その前に「雄略天皇」御狩の跡(矢刺神社)を参拝し、その後に葛木神社と葛城家御廟所を訪問しました。

さて、その「雄略天皇御狩の跡」とは日本書紀や古事記にも出てくる逸話であります。

 

さて、大阪の南河内郡地区富田林、藤井寺、河内長野や堺などの小学校では必ず金剛山に登るというのが年中行事になっている学校が多いのです。登山といえば「金剛山」といえます。さて、金剛山というのにお祀りしている神様は葛木神社と呼ばれているのです。どうしても水越峠の対等にある葛城山と思ってしまいます。

しかし、元々葛木神社の山号は金剛山ですので、そこから名前が付けられた。上記にある葛城家といえば「一言主大神」を思い出します。この「一言主大神」が祀られています。葛城山の南側にあります。「葛木坐一言主(かつらぎにいますひとことぬし)神社」は5回程行ったことがありますので良く知っております。祭神は二柱で

※葛城之一言主大神

※雄略天皇

私は葛城山や金剛山の東側の地区が大変好きな場所で以前に紹介しました秋津という場所であります。神武天皇が国見山で国見したと云われる場所や高天彦神社。高鴨神社、鴨都波神社、孝昭天皇陵、孝安天皇陵、日本武尊白鳥陵、孝昭天皇池宮跡伝承地など様々な古代のロマンがあります。

 

ウィキベディアから参照

明治の『神社明細帳』では事代主命・幼武尊の2柱とするが、『大和志料』では一言主神に雄略天皇の配祀とする。『延喜式』神名帳での祭神は1座で、同帳に「葛木坐一言主神社」と見えるように元々は一言主神1柱を祀った神社とされる。この一言主神は『古事記』等では「一言主」、『日本書紀』では「一事主」、『日本霊異記』では「一語主」とも表記される。凶事も吉事も一言で言い放つ託宣の神とされ、現在も一言で願いを叶えてくれる神として信仰されている。記紀に系譜は記されていないが、『先代旧事本紀』では一言主神を素戔烏尊の子とする。

 

雄略天皇と葛城山の大猪

 

この一言主神に関しては、『日本書紀』『古事記』における雄略天皇との対面説話が知られる。両書によれば、雄略天皇が葛城山中で狩猟をしていた際、天皇と同じ姿の一言主神(一事主神)が現れ、天皇と狩猟を競ったという。ただし、『古事記』では天皇が大御刀・弓矢・百干の衣服を神に献じて拝礼したとして一言主神の方が優位に記述されている一方、『日本書紀』では天皇が物を献じることはなく一言主神と天皇が対等に近い立場で記述されている。『古事記』の方が原初的と見られることから、『古事記』の説話は一言主神の奉斎氏族とされる葛城氏が皇室外戚として強い勢力を持った頃の政治情勢を反映したもので、『日本書紀』の説話は葛城氏勢力が衰えて一言主神の地位も低下した頃の情勢を表すと考えられている。

 

さらに時代が下り、平安時代の『日本霊異記』や『今昔物語集』では、一言主神は役行者(役優婆塞/役小角)によって金峰山・葛城山の間に橋を架けるために使役され、さらに役行者の怒りにふれ呪縛された、と記されるまでに神威の低下が見られる。なお、この使役の時に一言主神は自らの顔の醜さを隠して昼は働かず夜のみ働いたとされるが、その説話を受けて松尾芭蕉は『笈の小文』に歌を残している(「登場作品」参照)。

 

猶見たし花に明行神の顔

 恥ずかしがらずに顔を見せてください、一言主神さま。この山の桜は全山満開、その美しいこと。あなたもきっと美しいに違いありません。

 

土佐神社(高知県高知市)

現在は一言主神と味鋤高彦根神を祭神とする。

なお、『続日本紀』天平宝字8年(764年)条では、雄略天皇と狩りを競った「高鴨神」が土佐国に流されていたが、天平宝字8年に元の地に祀ったとある。しかし『釈日本紀』所引『暦録』の一説では、天平宝字8年に一言主神を土佐から迎えて葛城に祀ったと記されるほか、『釈日本紀』所引『土佐国風土記』逸文では、土佐の高賀茂大社(現・土佐神社)祭神は一言主尊であるが一説には味耜高彦根尊であると記され、文献上では一言主神と高鴨神(味耜高彦根命:高鴨神社祭神)との間で所伝に混乱が見られる。そのほかに音の類似や託宣神という性格から、一言主神を事代主命と同一視する説もある。

 

雄略天皇と

 

 

癒しの場所から抜粋

一言主大神

悪事も一言善事も一言言離の神葛城の一言主大神

(マガゴトモヒトコト  ヨゴトモヒトコト 

        コトサカノカミ カツラギノヒトコトヌシノオオカミ)

一言主大神は、古事記上巻(神話)や日本書紀・神代の巻ではなく

雄略天皇記に登場する神です。

何事も一言で言い放つ託宣の神と言われていますが、

現代では「一言だけ願いを叶えてくれる神」と転訛して

信仰される場合が多いようです。

古代の豪族・葛城氏の祖神とも言われるこの一言主大神は、

登場する書物の中で、段々とその扱いが低下してしまう珍しい神様です。

 

古事記

ある日雄略天皇一行が葛城山で、

服装などが天皇一行と同じ一言主一行と出会います。

両者は一触即発の状態で対峙しますが、一言主が神であると知った天皇は

大刀や弓、百官の衣服を礼拝して献上したと書かれています。

(※葛城山=現在の金剛山)

 

日本書紀

雄略天皇が葛城山に狩りに出かけた時、

顔も姿も天皇によく似た一言主と出会った。

名乗り合ったあと二人は、仲良く鹿狩りを楽しんだと書かれています。

葛木神社摂社・矢刺神社

「雄略天皇 御狩の跡」
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一言主大神とのご会見の地

このように古事記よりも後に編纂された日本書紀では、

天皇と一言主大神は対等の存在になっています。

続日本紀での一言主大神は、天皇と狩りの獲物を争ったため

土佐に流されたと書かれています。

そして歴史書ではなく説話集ではありますが

 

日本霊異記での一言主大神は、

同じく葛城一族であるはずの役行者(えんのぎょうじゃ)によって呪縛を受け

そのまま放置されたと書かれています。

この扱いの変化は、葛城氏の衰退を表しているという説もあります。

しかし私は、それ以上に藤原氏の仕業ではないかと想像しています。

高鴨神社やその周辺の神社の御祭神から考えると

葛城氏は出雲神系の氏族。

 

そして、あの蘇我氏も葛城系氏族だとも言われています。

雄略天皇の時代以降、出雲神系の血脈を天皇家から排除しようと

出雲系と天孫系の暗躍が延々と続いていたのかも知れません。

 

テンポウ

転法輪寺

記紀に書かれている一言主命と雄略天皇の逸話は葛城山が舞台です。

これは現在の金剛山のことだと言われています。

金剛山というのは、実はあの山の現在の通称名なんです。

葛木神社のすぐ下に役行者が開いたとされる転法輪寺があります。

役行者の命日とされる77日には、葛木神社と転法輪寺による

神仏習合のお祭があるそうです。

転法輪寺の山号は金剛山。

ここの山号がこの山の通称名となったそうです。

葛木神社のあるこの葛城山系の最高峰は葛木岳というのだそうで