皇道大本研究資料 亀岡叢書第九編

 

社會主義と皇道大本

                             谷口正治講述

 

  1. 民主思想存在の意義

明治二十五年正月以來大元教祖に國祖神が神懸りせられて、所謂自動書記の形式で筆を走らされましたところの大本神諭即ち「御筆先」に於いて預言せられましたことは唯の一つの例外もなく世界に事実となって現はれて來ましたのは誠に驚くのほかはないのであります。

 

が、なかにも著しい事實の一つは外國の君主たちの次第次第に滅びてしまったと云ふことであります。

 

現在では日本の君主のほかにもまだ英國や伊太利などにも君主がないでもありませんが、それは唯形式だけ存在してゐると云ふだけでありまして君主の實権は備えていないと云ふ方が事實に近いのであります。

 

ところが外國の君主たちを滅ぼして了ふためにある期間だけ神が殊更に流行させてゐられる思想は

 

▽民主民本の思想

 

なのであります。

 

宇宙のありとあらゆるものはただ一つの中心をもち、それに統一されてゐるのが原則であります。

細胞にしても中心に唯一つの核があり、物質原子にしても唯一つの中核體があるのであります。

 

樹木にしても幹は一本しかありませんし、吾々にしても頭は一つしかないのであります。

もし頭が七つも八つもあって、この一個の身體を各自思ひ思ひに動かそうと思ったならば吾々の肉体は調子がくるって滅びて了うに相違はないのであります。

 

それと同じやうにこの吾々の住んでいる地球も一つの中心なる統治者に支配しられないで、数多の帝王に分割しいられて、各自自分の欲望ばかりをとげようと思っていますと亦調子が狂って了う筈なのであります。

 

今現に調子が狂っているいるから國際戦争だの、民族争闘だの、階級争闘だのが頻繁に行われて修羅場を演じている譯であります。

それ故に明治二十五年正月の大本神諭には

 

「お照らしは一體、七王も八王も王が世界にあれば、此世に口舌がたえんから、日本の神國の一つの王で治める経綸(しくみ)が致してあるぞよ。

外國は獣の王であるから王無(おうの)うに至すぞよ。」ともあり、又明治三十六年二月二十九日の大本神諭には

 

「日本の國は別として、王、天下は永う続かんと申しているが、何事も時節がまいりて来て明いた口が塞がらん事が世界には出て来るから、気も無い内から、出口直の手で知らして尽くしているが、脚下へ火が燃えて來て身体に火が附いてヂリヂリ舞はねば成らん事が出來てくるぞよ。」

 

ともあるのであります。

民主的思想を跋扈しているものも實は分裂して相爭っている、天下の諸王たちを滅ぼして一君に統一するための神の深遠なる神策の一部の實現に過ぎないのであります。

それ故に民主主義的思想も亦大いに存在の意義があるのでありまして、デモクラシイそのものが決して惡いと云う譯ではないのであります。

 

▽デモクラシイは

 

これを喩えますと病菌が侵入した場合に吾々の肉体におこるところの発熱とおなじようやものであります。

発熱そのものは決して悪いのではないのでありまして黴菌を滅ぼすために必要なのであります。

それと同じように世界の病菌であるところの跋扈し割拠している天下の諸王たちを滅ぼしてしまって此の地球上を一人格を統一するためには民主的思想が必要なのであります。

 

しかし発熱が病菌をほろぼしてしまうだけならよろしいが、自分自身本来の細胞を死滅さしてしまうほどに熱度が高くなると、困ったものであります。

そう云う場合にはどうしても

 

▽解熱剤を服用

 

をせなければなりません。

神がこの地球上の総覧的本尊細胞としてあらかじめおつくりになっている大日本國だけを残して、その他の諸王たちを滅ぼすために、ある時期を劃して流行せられた民主思想熱も、あまりに熱度が高くなって大日本の國体を破壊して了うほどに病氣が昇進すれば民主思想はその本來の存在意義を失って了う譯であります。

 

(二)自由と平等の問題

 

現代の人類を支配してゐる主なる思想の一つは人類の平等といふ思想であります。しかしこんな事は少しく聡明な頭をもって問題を抽象化することなしに、實際的の事実を精緻に觀察せられますと、非常な錯誤(まちがひ)であることがわかるのであります。

 

 甲の人と乙の人と何處が平等でありますか。姿もちがへば能力も性質も違ふのであります。類型だけを抽象して考へては下さいますな。現代人は個性を尊重すると云ひながら、人類の平等を主張するとは何と云ふ自己撞着でありませうぞ。人類が平等でなくて各々異なる特性をもってゐるからこそ、

 

▽個性の尊厳

 

と云ふ事がはじめてあり得るのであります。さうして個性の本然を發揮することだけが、吾々の正義であるのであります。皇道大本では「罪」と云ふ言葉を言靈學上から解説して、罪は「包み」であり又「積み」であると申して居りますが、與へられた自己天賦の個性を發揮することなしに、いたづらに本然の性能を包み積んで發揮(あらは)すことがないのは實に大いなる罪惡なのであります。それ故に吾々の天賦の個性の發揮と云ふことは吾々の自由であると共に正義であるのであります。ちここでは、

 

▽正義と自由と

 

はピッタリと相一致することになるのであります。現代のある一部の人達は「自由」と云ふことを穿き違へて「放肆」(ほうし)とか「不檢束」とか云ふ意味にとりたがって居りますが、個性を發揮することが吾々の正義であると共に自由であるならば、自分の天分以外に脱線することは正義でないばかりか、又他人の個性の自由を犯すことになるのであります。

 

 他人の個性を犯してゐる間は自己の個性を發揮するに全力をそそぐと云ふ譯に行きませんから、これは、自己の個性の發揮する自由を包んでゐることち「罪」といふことになるのであります。かう云ふ意味に於て個性の尊重といふことも正義と云ふことも自由と云ふことも皇道大本の主張によれば相一致すると云ふことになるのであります。

 

(三)民族的個性の尊重

 

個性の尊重といふことをそんなにも尊重してゐる現代人は民族的個性の意義を考へて觀なければなりません。各個人が各々異なった天分を有(も)ってゐるやうに、各民族は各々異った天分を有ってゐる筈であります。

 

各個人の各々の天分を發揮して相冒すことなきことが正義であり、自由であると同じやうに、各民族は各々の民族的天分を發揮することが正義であり自由であるのであります。

叉手(さて)、ここで吾々日本民族の

 

▽民族的天分

 

とは何であるかと申しますと、これは世界を一君によって統一するところの使命をもってゐることであります。原子に一個の中核體があるやうに樹木に一本の幹があるやうに、吾々に一個の頭があるやうに地上にも一君がなければならぬことは前述したとほりであります。

 

しかもその中心者中たる吾々の一個の頭が決して、吾々が滅びてしまはないかぎりは他の頭と交替しないやうに、世界を治める中樞者も、亦萬世一系であって地球が壊滅しないかぎりは決して交替しない性質のものでなければならないのであります。

 

この資格をそなへた君主を世界の人類の中にもとめますならば、どうしても唯一尊貴なる天照大御神の靈統を天壌無窮につぎたまへる。

 

▽大日本天津日嗣陛下

 

以外にないのであります。吾々が日本の世界統一を稱へるのは決して我田引水論ではないのであります。日本民族が世界の各民族に比べて優等なる民族であると云ふことは、その他の諸點にも著しうあらはれてゐるのであります。

 

一例をあげますれば、動物試験の際に人間の血液をモルモットや兎などに注射しますと、殆んど中毒症をおこさないであります。これは高等なる動物の血液を一層下等なる動物に注射するからであります。

 

(中略))

 

▽外國人の藝術

 

と來ては、繪畫は勿論、小説演劇等に到るまで枝葉の末技にとらはれてゐまして藝術品といふよりも寫眞とか筋肉労働による生産品と云ふ方が適當なのが澤山あるのであります。

 

▽觀相學の見地

 

から申しましても、面角の傾斜の度などから、日本人は外國人に劣っているなどといふ風に觀察する人もありますが、これは腦髄の量にばかり捉はれて質の問題を考慮に入れることを忘れた極めて不用意な觀察なのであります。その人の腦髄の質の良否は顔面の皮膚の肌理の精粗によって觀察するのでありますが、西洋人の皮膚と來ては油繪式で近寄って見れば二た眼とみられないほど粗っぽいものであります。

以って西洋人の腦髄の品等がどれ位のものかわかるのであります。殊に最も重大なる問題は、日本人は外國人に比べて

 

▽言葉が淸明豊富

 

であると云ふことであります。言葉の數は宇宙意志の顯現の度合をはかるところの最も重大なバロメタ-でありまして、無機物、或は下等動物の聲が高等動物にくらべて少ないのは諸君御承知の通りであります。

 

日本人は「我」といふことをあらはす言葉にも、「僕」とか「吾(あ)」とか、「自分」とか「拙者」とか「わたくし」とか、「わし」とか「おれ」とか云ふやうにさまざまな異なった氣分をあらはす言葉がありますが、外國語にはこれと同じ言葉は唯一語「アイ」とか「イッヒ」とか云ふ言葉しかないのであります。言語(ことば)において日本人が他民族に比べてすぐれてゐるといふ點については拙著「皇道靈學講話」に詳論して置きましたから御参照せられんことを希望します。

 

何故又腦髄の質の最もすぐれてゐる日本人の文明が一見外国文明に劣ってゐるかと云ふ理由なども同書に詳述して置いた筈であります。吾々日本人が世界の治者となるのは、日本人の横暴のためではなく全人類の幸福のために、恰も全細胞の幸福のために腦髄の皮膚細胞が本然の主腦者たる位置を恢復すると同じであります。