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摂津国
(大阪北東部)能勢の野間郷に逃れたが、翌年崩御したとする説。
侍従左少辨・藤原経房(つねふさ、吉田家の祖となり『吉記』を残した同時代の権大納言藤原(吉田)経房ではない)遺書によれば、戦場を脱した安徳帝と4人の侍従は「菅家の筑紫詣での帰路」と偽り、石見・伯耆・但馬の国府を経て寿永4年(源氏方年号で元暦2年、1185年)摂津国(大阪北東部)能勢の野間郷に潜幸された。しかし翌年5月17日払暁登霞(崩御)され、当地の岩崎八幡社に祀られた。経房遺書は、文化14年(1817年)能勢郡出野村の経房の子孫とされる旧家辻勘兵衛宅の屋根葺き替え時、棟木に吊るした黒変した竹筒から発見された建保5年(1217年)銘の五千文字程度の文書で、壇ノ浦から野間の郷での登霞までが詳細に書かれてある。当時、読本作者・滝沢馬琴や国学者・伴信友などは偽作と断じたが、文人・木村蒹葭堂(二代目石居)などは真物とした。経房遺書原本は明治33年頃亡失したとされるが、写本は兼葭堂本・宮内庁・内閣文庫・東京大学本などとして多く存在する。能勢野間郷の来見山(くるみやま)山頂に安徳天皇御陵墓を残す。経路であった鳥取県の岡益の石堂三朝町などにも今も陵墓参考地を残すが、これらは源氏の追及を惑わすための偽墓とされる


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全国各地のこうした陵墓があります。
行ってきた場所は大阪の北部にあります、安徳天皇陵墓です。安徳天皇の陵墓は山口県にありますが、私は安徳天皇だけはまだ参拝しておりません。
この陵墓の伝説の場所はこの能勢の妙見山の北側だけは知っていたのですが、偶然に地道の道(府道4号線)の所を通った時に発見しました近くにはゴルフ場もありますが、鹿や猪の多い場所であります。

小さな山ですが来見山の頂きにあります。