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私は以前に大倉山を散策したことがある。ちょうど横には神戸中央図書館があり、それを見てから大倉山で休憩をした憶えがあります。

高台になっており、神戸の町を一望できます。ここも楠木正成軍が陣を置いた場所ともいわれる。ここは源平合戦でも戦に使われた場所である。

しかし、時間の関係もあり、大倉山は今回行かなかった。まずは会下山である。それは湊川の戦いで最初に陣を置いた場所であるからである。

 

「歴史探訪記」から抜粋

1335年(建武2)12月11日、後醍醐天皇に叛いて武家政権の樹立を目指す足利尊氏は竹之下で新田義貞を破り、1336年(建武3)1月、京に攻め上がった。しかしその間奥羽北畠顕家は兵を率いて尊氏不在の鎌倉を占拠すると、そのまま尊氏の後を追い西上、尊氏軍を撃破した。

更に豊島河原・打出浜合戦にも敗れた尊氏は海路九州へ敗走するが、その後多々良浜合戦に勝利し、勢力を回復すると光厳天皇を奉じ東上を開始した。これを迎え撃つ為、楠木正成は京を発し、5月24日、既に新田義貞が布陣する湊川に着陣した。正成は会下山に本陣を構え、楠木勢の総兵力は7百余りであったといわれる。

25日、新田勢ははじめ和田岬に布陣していたが、敵勢の多さに生田の森まで後退していた。ここで足利方細川勢に攻められた新田勢は退路を断たれる恐れから全軍東進し、そのまま正成を置いて京へ退く。細川勢は敗走する新田勢を追わず、反転して楠木勢の背後に回り、その間水軍主力も上陸して尊氏軍は楠木勢を完全に包囲した。

午前10時、孤立無援となった楠木勢先鋒3百騎は会下山を下りて赤松勢へ突入し、細川勢、島津勢も崩れかかった。楠木勢主力もそれに続き、6時間に及ぶ激戦が行われるが、力尽きた正成以下僅かの郎党は湊川北方の民家に入り、自刃した。

 
それでは、会下山公園に
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神戸の山を見下ろす会下山は陣を張るにはいいところでもある。水路からももちろん、陸路からも見渡せる。東郷平八郎大将揮毫の「大楠公湊川陣之遺跡」がたくましく聳える。
その山の東側にも東郷平八郎揮毫の遺跡がある。
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さて、その後は善光寺境内にある「平業盛」という少年武者の御墓に行った。P1190692
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それからしばらく南下して「福厳寺」に行った。


ここは「福厳寺」である。下図は「史跡後醍醐天皇駐蹕之處」である。


先日の奈良県橿原市の「明治天皇今井行在所」のなかにも「明治天皇駐蹕之處」があります。

明治天皇の駐蹕之處は全国にありますが「後醍醐天皇駐蹕之處」は珍しい。


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昨日は行けなかったが
後醍醐天皇霊水碑(薬仙寺)

後醍醐天皇霊水碑(薬仙寺)

後醍醐天皇が隠岐から還幸の途中、兵庫津の福厳寺に立ち寄られて滞在されたとき、薬仙寺の霊水を服薬のために差し上げたという。境内には『後醍醐天皇御薬水薬師出現古跡湧水』の碑がある。


産経新聞の「楠木正成考」には
湊川神社(神戸市中央区)の境内に、楠木正成の生涯を絵入りで解説した「大楠公御一代記」の看板がある。その中で、ひときわ晴れがましい光景として描かれているのが、船上山(鳥取県)から京に還幸する後醍醐天皇を兵庫の地で迎える正成の姿だ。

  〈楠多門(たもん)(聞)兵衛正成、三千余騎を卒して参向す。その形勢ゆゆしくぞ見えたりける〉 『太平記』はそう記す。

 

 後に終焉(しゅうえん)の地となる兵庫だが、この時の正成にとっては下赤坂城で挙兵して以来、鎌倉幕府の大軍と戦い続けてきた労苦が報われた「栄光の地」にほかならなかった。

  「大義早速の功、ひとへに汝(なんじ)が忠戦にあり」

 後醍醐天皇は、乗っていた御車のすだれを巻き上げさせ、正成にこう語りかけた。

 「姿や顔を見せない従来の天皇像とは異なった、後醍醐天皇独自の気質がうかがえる。正成を重視する太平記の姿勢が、破格ともいえる天皇の対応に投影されているのではないか」

 

 神戸大の市澤哲教授はそう話す。

      ◇    ◇

 後醍醐天皇が兵庫に滞在した際、行在所(あんざいしょ)としたのが臨済宗の寺院、福厳寺(ふくごんじ)(神戸市兵庫区)だ。「港だった兵庫津から遠くない立地が行在所に選ばれた理由かもしれません。当時の禅僧は大陸と国内各地を往来しており、さまざまな情報に接するには最適だったのではないでしょうか」

 

 神田謙光住職はそう推測する。実際、後醍醐天皇は同寺で、鎌倉幕府滅亡の知らせを受ける。新田義貞が鎌倉を落とし、北条高時らを自害に追い込んで十日後だった。福厳寺からほど近い薬仙寺(同)には、福厳寺に滞在した後醍醐天皇が病に伏し、吉報を耳にしても癒える気配がなかったという伝承が残る。

 

 そこで、薬仙寺の住職が境内にわいていた霊水を献上したところ、病が治ったという。『薬仙寺縁起絵巻』には、菊水の旗の下、弓を携えて福厳寺の庭に控える正成の姿が描かれる。この場面は、昭和初期の尋常小学校の国史教科書に掲載されていたという。

 

  産経新聞連載・記事から抜粋

                   2016年7月28日

楠木正成・考《建武の新政》①

  「教科書では住職が霊水を献上する光景としてではなく、正成が後醜醐天皇に拝謁する場面として説明されていたようです。正成の影響力の大きさを感じます」

 薬仙寺の後藤尚玄住職はそう話す。絵巻は、昭和二十年の神戸大空襲で失われ、今は寺に残された絵はがきで内容をしのぶしかない。



次回は湊川神社の事で書きたい。
この湊川神社は明治維新の志士達が楠木正成に憧れて立ち寄った場所でもある。

現在放映されている「西郷隆盛」もこの「嗚呼忠臣楠氏之墓」の前で額ずいて「日本の国難」を防ぎ、国体を護る為に奔走したのであります。