読売テレビ・日本テレビで明日(223日(金)夜9時)【天才を育てた女房】が放映される。実は岡潔は生長の家(谷口雅春先生)とは思想が大変近い。


昭和51年の年初の『聖使命』新聞に掲載されている。

 

 昭和51年(1976年)の年初、「生長の家」の機関誌「聖使命」(115日)に、岡先生の発言を紹介する記事

 「人類救済と日本歴史 此の世は造化放映の映像」

が掲載されました。「聖使命」の記者が岡先生の談話を記録した記事のようですが、末尾に、「本論を詳述した「春雨の曲」が今年の夏出版されます」と附言されているのが目に留まります。この『春雨の曲』は第4稿を指すと思われます。夏までに出版したいという岡先生の望みがうかがわれるメモですが、これは実現せず、改稿の試みが続けられました。

 

また、岡潔先生の講演録では―日々のつれづれ―より抜粋

 

日本民族の使命

 

 この頃の教育では、日本民族はつまらない民族で、前にやっていたことは、みな間違っているから、アメリカのようにやらなくてはいけないと教えているように見えるが、日本民族が真実、そんなつまらん民族なら、千年や2千年教えたところで、大脳前頭葉という道具は、それほど発育しやしません。

 

 まして、その大脳前頭葉を使っていく心がそんなにきれいになるとは思われません。到底、千年や2千年の教育では間に合わない。教育がすぐ効果を上げようというのだったら、その民族は優れた民族でなくてはならない。但し、その優れ方に様々あるでしょう。だから、自分の優れたところに、早く目覚めるように子供を教えるのがよい。目覚めれば、あと力がついてやれます。

 

小我と日本国新憲法

 

 ところで、日本国新憲法の前文は、小我こそお前である。それは万古の真理である。尊厳な事実である、と言って、これによって、憲法・法律を作っている。そして、これを裏打ちするに、アメリカ人デューイの思想をもってし、それによって、社会通念を作り、さらに新学制をしき、以来、今日なおこれを大事にし続けている。それから20年にもなる(1967年当時)。この日本国新憲法の前文は、1300年もの間、仏教が言い続けてきたこととは正反対、それが、たった明治以来80年でケロッと忘れてしまうというのはおかしいことです。

 

 新憲法の前文では、人が、自己中心に行為する姿は尊厳であると言っている。こんな馬鹿なことを思う日本人があるはずがない。日本において、善行といえば、人のためにする行いであった。自己のためにするという匂いが少しでもすれば、日本人はそれに対して実に敏感であった。自分はエゴイスティックに振舞っても人に対してはそうであった。

 

 それが、戦後わずか20年で、自己中心に行為する姿が尊厳である、などという作文のできる日本人がいるはずがないと思って、だんだん調べていってみると、進駐軍が示唆して、アメリカ憲法から取って文章を書き、これに日本国新憲法前文という表題をつけさせたらしい。後も進駐軍の示唆や命令ですし、戦後20年の歴史は、この1つの事実によって要約できるくらいです。

 

 教育の方針は、国によって民族によって別であるべきだと思います。日本民族の場合、真我に目覚めやすいということが長所ですから、早く、真我に目覚めさすように教えなければいけない。大体、日本民族は優れた民族であるだけでなく、人類をその滅亡から救うという重い使命を担わされている。私達は何よりもそれを自覚し、そうであることに誇りをもたなければならないのです。でなくては、教育はできない、そう思います。

 

日本民族の自覚

 

 大体、日本民族は、天御中主命あめのみなかぬしのみことから数えると、30万年にはなると思う。 ― 人類あって以来60万年100万年とも言われていますが ― それが物質が自分ではなく、心が自分だと初めから気づいているというのは実に早い。だから、日本民族は、私は、他の星から来たのだろうと思います。ともかく、日本民族の中核の人は心が自分だと思っている。だから日本民族は心の民族です。心は合わされば1つになる。これが心の民族の特徴です。

 

 日本人は日本民族の心というものの、この強い力にひかれて、だんだんそうなっていくのです。これが同化作用ですが、その同化の度があまり進んでいない、十分同化してないのです。しかし、そういう人達だと、自分が日本民族の一人だということに、本当に目覚めることは簡単にできる。それで、真我に目覚めたことになっている。これが一番早い。

 

 その後、深めるには、仏道の修行とか、いろいろといるのですが、まず、目覚めるには日本民族の一人であるということに目覚めるのは、極めて早くできる。それで、既に、真我に目覚めたことになる。これが一番早い。だから、子供を真我に目覚めさせようと思えば、民族の詩であり歌である歴史を教えるということが、何にも増して大事なことだと思う。