光仁天皇夫人 贈太皇太后 天高知日之子姫尊(新笠) 大枝陵


地図では桓武天皇御母御陵となっています。


この新笠という言葉は高野新笠で有名な言葉です。以前に私はこの高野という地名を訪れてみたことがあります。神功皇后の陵墓の北側なんです。


 


ウィキペデア参照


父の和乙継は、百済系渡来人氏族の和氏(姓(かばね)は史)であるが、生前の位階・官職は不明。光仁天皇即位後に高野朝臣と改姓した。母の土師真妹は、土師氏(姓(かばね)は宿禰)であり、桓武天皇即位後に大枝朝臣と改姓した。延暦8年までに父母ともに死去しており、ともに正一位が追贈されている。


 


続日本紀延暦81228日条に、


「皇太后姓は和氏、諱は新笠、贈正一位乙継の女(むすめ)なり。母は贈正一位大枝朝臣真妹なり。后の先は百済武寧王の子純子より出ず、皇太后曰く、其れ百済の遠祖都慕王は河伯の女日精に感じて生めるところなり、皇太后は即ち其の後なり。」


とあって、和氏が武寧王の子孫であることが記されている。日本書紀によれば継体天皇7年(西暦513年)「百済太子淳陀薨」とあり、純と淳陀が同一人物ではないかと考える学者も存在する。ただし、朝鮮側の資料には武寧王の子として純、もしくは淳陀に比定できる人物が存在していない。このことから和氏が武寧王の子孫であるかどうかは、疑問であると水野俊平は主張している。


 


また、純太子の没年と高野新笠の推定生年(720年頃)には約200年の開きがあり、和氏が百済系渡来人としても百済王氏のような新来の渡来人ではなく、相当な古来で日本化した帰化氏族だといえる。和乙継の牧野墓は奈良県広陵町にあるバクヤ塚が推定されているが、これは馬見古墳群に属する「古墳」であって築造年代が異なる。


 


高野近傍には土師氏の根拠地である菅原伏見、また秋篠がある。ここには菅原寺、秋篠寺などが営まれ、また長岡京が大枝におかれたことからみても、母方の土師(大枝)氏一族は重んじられた。一族は大江朝臣・菅原朝臣・秋篠朝臣などを賜姓され、貴族として以後長く活躍した。一方、高野朝臣と改姓した父方和氏一族のその後は、ほとんど知られていない。


 


高野新笠の子である桓武天皇の子孫は現天皇家や皇族に繋がっているだけでなく、臣籍降下して源氏や平家の武家統領などになった子孫もおり、高野新笠の血筋は繁栄した。平成13年(2001年)、今上天皇は続日本紀に高野新笠が百済王族の遠縁と記されていることについて述べ、いわゆる「韓国とのゆかり」発言をおこなった


もうひとつは淳和天皇御母陵です。


桓武天皇夫人 贈皇太后 旅子 宇波多陵といいます。


淳和天皇の陵墓は小塩山の山頂にあります。


 

淳和天皇 ウィキペディアからDSC_0230
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2歳にして生母を失ったために、これを哀れんだ桓武天皇は有能な女官であった文室与伎の妻・平田孫王に親王の母代わりとして育成させたという。延暦17年(798年)4月に元服し、三品兵部卿となる。その後、大同元年(806年)治部卿、大同三年(808年)中務卿 となる。


 


弘仁元年913日(8101014日)、薬子の変後に廃太子された高岳親王(平城天皇の子)に代わって立太子した。


 


弘仁14427日(82369日)、即位。これに伴い、大伴氏が伴氏と改姓している。天皇の御名と同姓なのは畏れ多いと大伴氏が判断したからだといわれている。


 


天長10228日(833322日)、仁明天皇に譲位し退位。


 


清原夏野ら良吏の登用を積極的に行い、地方の政治の荒廃を正した。また土地対策を行い、税収の増加に努めた。また、『令義解』や『日本後紀』の編纂が行われた。表面的には比較的平穏な時代であった。


 


だが、その即位は天皇個人が望んだ皇位継承ではなかったとされている。『日本後紀』によれば、大同元年51日(806522日)に大伴親王(当時)が父帝の死を機会に臣籍降下を願い出て皇太子(平城天皇)に慰留されている。天皇は桓武天皇の皇后(藤原乙牟漏)所生ではなかったが、生母が皇后と同じ藤原式家の出身でかつ異母姉妹にあたる皇后所生の高志内親王を妃として恒世親王を儲けていた。平城・嵯峨両天皇を除けば恒世親王が桓武天皇嫡系にもっとも近い皇族(臣下を母とする平城天皇の高岳親王や嵯峨天皇の正良親王(仁明天皇)よりも近い)であったが、父親である大伴親王を飛ばして皇嗣に立てる訳には行かなかった。そのため、嫡子ではない大伴親王への皇位継承の可能性が浮上した。親王は平城・嵯峨両天皇が自己の異母姉妹(桓武天皇の内親王)との間に男子を儲けた場合に自分や恒世親王が他戸親王や早良親王のように皇位継承争いに巻き込まれることを危惧して上表を出したと考えられているが、桓武天皇嫡系に准じた恒世親王の皇位継承権の喪失につながるこの上表は受け入れられるところとならなかった。


 


だが、淳和天皇は即位後恒世親王ではなく、嵯峨天皇の嫡子であるとして正良親王を皇太子に擁立した(高岳親王は薬子の変で廃太子)。在位中に恒世親王が病死したため皇位は正良親王(仁明天皇)に継承されたが、仁明天皇は淳和上皇と正子内親王(嵯峨天皇の皇女)の間に生まれた恒貞親王を皇太子に擁立した。淳和上皇は有力貴族の後ろ盾のいない息子恒貞親王が仁明天皇の皇太子になったことに不安を抱いていたとされ、忠実な側近藤原吉野に親王の後事を託して崩御するが、その不安は承和の変として現実のものとなった。


 


承和758日(840611日)、崩御。死にあたり、薄葬を遺詔としたため京都大原野西院に散骨された。


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