『谷口雅春先生を学ぶ』誌の1月号に中島昇治氏が下記の文章を書かれている。

 

【国体観の始原は尊師が〈いつ、どこで〉古事記を読まれ、神道・国体観について研鑽を深め…の記述は、小生の記憶にない。】

 

勿論、これに関しては知らないということは当然であろう、それを反対に知っていたらどれほど詳しいのか頭が下がる。

 

さて、その文章は実はそういう文章があることを知っている人は極一部である。勿論、私の『谷口雅春先生著作一覧表』を所有されている人は知っている。

 

そこで何時「古事記」について初めて記入されたかというと、大本教時代である。それは大正八年四月一日号の『神靈界』という雑誌です。当時は皇道大本の時です。

 

『神靈界』大正八年四月一日(第八十三號)

「邪神の發生と身魂の修秡」(古事記の解読と「神癒」への比較論文)

 

実はここで驚くことは大本に入信されたのは早春の頃という記載があります。たぶんその年の一月頃であると推察します。

大正八年三月十五日(第82號)では

「改心しかけた男の日記」○蟻と科学者 ○太陽のやうな神 ○智慧と運命

○時節と天分 (短文)

 

私はここで驚くのはちょうどこの時期にはそれまで編集長を行っていた友清天行氏から四月一日以降は交替している。(四月十五日に交替の記事がある)

しかも、いままで、国体や古事記や皇道の勉強をされておられる形跡などない。ある方から早稲田大学や摂津紡績時代も西洋思想史のみしか勉強されておられませんということを雅春先生の直接お聞きになられておられます。

その大正八年一月から入信され、しかも四月一日号では既に「古事記」を解読されているのには驚く。ただ、大正六年に『國譯大蔵経』を読でいますので理解力は天才と思います。(国民文庫刊行会)全31巻(菊版各約900頁及ぶ)

学ぶ誌には『國譯大蔵経』を読まれたのは大正七年と記載していますが、摂津紡績を辞められた頃で大正六年であることが記載されています。

 

輝子先生がお書きになられていましたが、「歴代天皇の名前をスラスラと黒板に書かれる姿を見て驚かれています。

この四月頃から講師として大本では活躍されていた。

四月十五日号の

「邪神の發生と身魂の修秡」で神道の把握もされておられます。こうした文章も何れは掲載したいと思っております。