私の前のブログで現総裁の谷口雅宣氏と意見を闘わしたことがある。

私のような「生長の家」信徒を辞めて久しい人間だが、やはり間違っていることには、はっきりと云わなければならないことを痛感します。



最後の文章は

下記に前文を記載しますので是非読んで頂きたい。

私は下記の文章はじっくりこない。

 戦前の雅春先生の著書には閉鎖的な行為をいままで行ってきた総裁である。ここで何故こういうことを書くのは奇異にすら感じる。

だが、それがなければこういう過去を真摯に探求することは大切なことです。さて下記の文章ですが、私がそれは推測であって間違いもあるというようなことを、実証的なことを書いてきました。その言い訳のような文章が下記です。それでは読んで下さい。

>さて、本欄ではしばらく「聖経」とは直接関係がないと思われる"周辺情報"の類について書き継いできたが、その目的は、「甘露の法雨」がいったん「聖経」と認定されながらも、1冊の折本型の経本として成立するまでに3年3カ月という長期間を要した経緯をたどり、著者・谷口雅春先生にどのような事情があったかを明らかにするためである。その作業はまだ終っていないが、昭和7年から同10年4月までの3年余に初期の光明化運動で何が起ったかを詳細に述べることは、本シリーズの趣旨ではない。そこで、これまで明らかになった"周辺情報"を前提として、ここで私の推測を概括的に述べることにする。これはあくまでも「推測」であるから、事実とは異なる可能性もあることを読者はご承知いただきたい。<
 
 結論をひと言でいえば、先生はこの時期、完成まもない初版革表紙『生命の實相』と、その続篇である『久遠の實在』の出版と頒布、そしてこれら2冊の中身を分冊したパンフレット等の発行と頒布に注力されていたのである。「甘露の法雨」は、すでに「聖経」としてこのパンフレットの1篇の中に収録されていたから、神前や仏壇の前で読むという日常的な需要には当面応じられていたと思われる。また、すでに述べたように、光明化運動の経済的基盤はまだ決して潤沢でなかったから、新たなコストとリスクが生じる折本型の経本の出版は、もし先生の胸中に浮かんでいたとしても、パンフレットの在庫がなくなった後の仕事だと考えておられたのではないか。
 
 谷口雅春先生の諸著作については、これまで我々の先人が纏めた『生長の家五十年史』のような正式の記録書の中に詳しい記述がある。それらの中の年表や編年体の著作一覧を見ると、この約3年間に雅春先生がどんなものの出版に力を入れられていたかが分かる。それによると、昭和7年の先生の出版物は「生長の家叢書」であり、同8年は『久遠の實在』であり、同9年は「光明叢書」、同10年は『生命の實相』黒布表紙版(20)と革表紙版(全9巻)の一部、そして次の9書であるー『生命の奔流』『新生活への出発』『地湧の淨土』『いのちのはやて』『本當の教育』『生命の行方』『光明主義』『生命の神秘』『光明の生活法』。
 
 この中で注目されるのは、「生長の家叢書」と「光明叢書」である。前者は、初版革表紙『生命の實相』の内容を11篇のパンフレットに分けて発行したもので、後者は同じく『生命の實相』と『久遠の實在』の内容を4対9の比率で同様に分冊した13篇のパンフレット・シリーズだ。このことから、谷口雅春先生の初期の単行本出版の考え方が浮かび上がってくる。その基本となるのは、初版革表紙『生命の實相』のようなしっかりとした内容の豪華な聖典を発行する一方で、その中身を小冊子に分けて廉価で入手しやすい"聖典への入口"を数多く作り、頒布することである。これにより、沢山の入口から大勢の人々を誌友として迎え入れ、運動の輪を拡大していこうという戦略を採られたのではないか。
 
 このような計画が背後にあると想定して、昭和7年以降の雅春先生の出版活動を追っていくと、納得できる部分が数多く見出されるのである。本欄の現在のテーマは「聖経」であるから、「甘露の法雨」の出版に焦点を当てながら、その記述を進めよう。<



さてここで更に詳しく述べると『生命の實相』のなかには『生長の家』誌から掲載したものが大半です。だがそれ以外に『生活者』などの投稿した内容も含まれている。

ここで黒布表紙版は当初は12巻までである。昭和10年で12巻の発行であるから引用の間違いである。

光明叢書は函入りでしかも内容が一部同じで二部発行している。各11冊で『神への道しるべ』『いのちのゆにわ』と『光明無限の生活』『こころ我を生かす』『吾が心の王国』『家庭生活の光明化』が同じです



1.
神への道しるべ       1. 神への道しるべ

2.
死を超えて生く        2.光の新生活へ 

3
吾が心の王国         3.家庭生活の光明化

4.
こころ我を生かす      4.こころ我を生かす

5.
七つの光明宣言      5.吾が心の王国

6.
いのちのゆにわ       6.いのちのゆにわ

7.
家庭生活の光明化     7.無限生命の泉

8.
光明無限の生活       8.光明無限の生活

9.
無限生命の泉         9.生長の家の歌

10.
妙法七つの燈台の教    10.人間生通しの話

11.
生長の家経済連盟の提唱 11.無一物の医学

このようにして11冊の内同じ内容が6冊です。

光明叢書は12冊です。特別篇が2冊あります。

昭和9年には光明叢書が出版されます。全8冊です。



また9冊挙げているなかに

『出世前・生・死・死後の研究』が生命の芸術社と生長の家出版部として発行されています。

また『生命の烈風(いのちのはやて)』と『いのちのはやて』が出版されています。

『光明の思想』

『無一物の哲学』

『生ひ立ちの記』

以前に詳しく記載しましたので発行年月日は省略させていただきました。

昭和10年において生命の芸術社で12篇が出版され、生長の家出版部が一冊、篇のなかにはないが『光明の生活法』『生命の烈風』『光明主義』があります。

私はこの光明叢書や生長の家叢書だけではなく、頒布用パンフレットには触れていないが活動に重要な役割をしめしたことを述べます。

無料頒布として私の所有しているのは『吾が心の王国』だけであるが、数冊印刷されていたことは間違いない。こういうことが現在ではポッカリと抜けているのが残念です。

 

総裁の書いた聖経について(8)であるが、ここにおいても明らかな間違いがある。
それを一つ一つ検証して何処が間違っているのかを明らかにしたい。

それではその間違いを谷口雅春先生御著書である『明窓浄机』草創篇と比較しながら分析します。

下記は総裁の書いた文書である。

【「聖経甘露の法雨」を収録した第9篇『生長の家の歌』を含めた10篇のパンフレットの発行時期は、雅春先生が"二重生活"に終止符を打たれて宗教活動一本で歩み出されてから3カ月後の、昭和7年10月以降である。奥付に記載された発行日は、10篇のうち7篇には「昭和7年10月3日」と印刷されているから、先生が退職後最初に取り組まれた出版が、このパンフレット7篇の発行だったと思われる】

と記入されているが、これはおかしい。

それでは『明窓浄机』草創篇のP41P42に「小冊子『生命の神秘』製本完成す」と記載があります。ここにこの本の出版の前に『行きとほし』が既に発行されていることが記載されています。この『明窓浄机』は生長の家誌から雅春先生の書かれた編集後記などを纏めた本です。つまりこの明窓浄机の記載されたのは昭和6年『生長の家』誌12月号です。勿論記載されたのは11月頃であろうと推測できます。

次に昭和71月号『生長の家』誌には『光の新生活へ』の発行と記載されていますので前年の12月には発行されたことになります。

翌月にはたまよけ本として【無限生命の泉】を発行されたと記入されていますので1月に発行されたのだと思います。

これらは五銭本と雅春先生が記載されています。

昭和77月『生長の家』誌には『いのちのゆには』を発行されていることが記載されています。

因みに『生長の家』誌7月号に「昭和7519日夜の神想観中谷口が『生長の家の歌』を朗読するに従って」と記載がありますからこの年代から現在の『聖経 甘露の法雨』は読誦されています。

さて、『生長の家』8月号には(P56)見眞道場修業規定は巻末発表の『生長の家叢書』と記載があります、この時点既に『生長の家叢書』として発行されているのである。いわゆる7月時点で『生長の家叢書』は発行されていたことになる。

その昭和7年八月一日には会社を辞め『生長の家』の人類光明化運動にささげられるのです。ここにも

多数の『生長の家叢書』を発行してという記載がある。

つまり最初に発行されたと記載されている昭和7101日までには既に何冊かは発行されているのである。私の推測では10巻がこの年の8月には既に発行されていることになる。そこで10月には『生長の家叢書・特別篇』も発行されるのです。

そうでないと『生長の家五十年史』に記載漏れがあるということです。それが私が調べた下記の第一弾の生長の家叢書の発行である。

それでは引き続き明窓浄机を見よう。

『生長の家』誌10月号には生長の家経済連盟の提唱という記載があります。これは翌年にはその記載した内容で本を出版されているのですが

『生長の家』11月号には「生長の家叢書・特別篇発行」『生長の家經濟聯盟の提唱』として発行されています。

そこで総裁の記入にはその特別篇がありません。それは私の記入した



一巻 『神への道しるべ』       

二巻 『死を超えて生く』        

三巻 『吾が心の王国』       

四巻 『こころ我を生かす』     

五巻 『七つの光明宣言』  

六巻 『いのちのゆには』    

七巻 『家庭生活の光明化』   

八巻 『.光明無限の生活』   

九巻 『無限生命の泉』    

十巻 『妙法七つの燈台の教』

特別篇 『.生長の家経済連盟の提唱』

だがこの特別篇は当時の内務省警保局の検閲にあったのではないかと推測出来る。

それは先程記入した『生長の家』誌10月号には生長の家経済連盟の提唱という記載には「貧乏と失業と不景気は社会の病気である」と記載がある。こうした内容が検閲にひかかったのであろう。

そうでないと昭和781日の宣言にある「生長の家叢書」を発行してと記載があるのは上記の生長の家叢書である。

一巻 『神への道しるべ』       

二巻 『光の新生活へ 』        

三巻 『家庭生活の光明化』       

四巻 『こころ我を生かす』     

五巻 『吾が心の王国』  

六巻 『いのちのゆには』    

七巻 『無限生命の泉』   

八巻 『.光明無限の生活』   

九巻 『生長の家の歌』    

十巻 『人間生通しの話』

十一巻 『無一物の医学』

これは先程掲載した本と同時期なださらた事もあり詳細は不明である。

さて、明窓浄机を読むと今回の総裁の誤謬がわかる、谷口雅春先生は退職して3ヵ月後に出版されたわけでもない、持続的に会社に勤めながら、辞められてもなお出版を続けられたのが真相のようである。これは五十年史には記載していないが、明窓浄机を読めばわかるのである。読まないで推測をまるで断定のようにかくのは誤謬を生み出す。

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聖経について (8)

 谷口雅春先生はまず、昭和7年元日発行の初版革表紙『生命の實相』の中で、自由詩「甘露の法雨」を初めて公式に「聖経」と認定された。その後、7月末で会社員をやめて宗教活動に専念される。前述したように、それは会社側の都合による解職であるから、先生の経済事情が好転したわけでは決してない。そこで必要になるのは、完成した豪華本の『生命の實相』をより多く頒布し、『生長の家』の誌友や共鳴者をふやすことである。しかし、誌友は必ずしも全員が誌代を払わず、『生命の實相』も当初の予定より高額となったために、それほどの頒布数は見込めなかったと思われる。このことは、昭和7年発行の『生長の家』誌上で、同書を「誌友に限り1冊2円50銭」で販売するという広告がほぼ1年間続いたことからも分かる。当初の奥付の記載は「有縁の方に限り特に金4円にて頒布す」だったから、これは実質的な大幅値下げである。
 
 これに加えて考案されたのが、『生命の實相』の内容はそのままに、この分厚い本を薄い小冊子10冊ほどに分けて廉価で販売することだった。この小冊子シリーズは結構売れたようだ。そのことは、本シリーズの第2回で引用した『新講「甘露の法雨」解釈』の文章の中で、雅春先生が『生長の家の歌』という題のパンフレットに触れられて、「他の一連のパンフレットはよく売れて出たのであります」と書かれていることからも分かる。つまり、『生長の家の歌』以外のパンフレットは好評だったという意味だ。また、私の手許にあるこれらパンフレットの奥付を見ても、版を重ねたものが多いことからも推測できる。
 
 このパンフレットには『生長の家の歌』という詩集のほかに9篇ほどの"姉妹篇"があり、それらには共通した「生長の家叢書」というシリーズ名が付けられていた。内容は皆、初版革表紙『生命の實相』の一部である。10篇のタイトルを列記すると--
 
 第1篇『神への道しるべ』
 第2篇『光の新生活へ』
 第3篇『家庭生活の光明化』
 第4篇『こころ我を生かす』
 第5篇『吾が心の王国』
 第6篇『いのちのゆには』
 第7篇『無限生命の泉』
 第8篇『光明無限の生活』
 第9篇『生長の家の歌』
 第10篇『人間生通しの話』

 「聖経甘露の法雨」を収録した第9篇『生長の家の歌』を含めた10篇のパンフレットの発行時期は、雅春先生が"二重生活"に終止符を打たれて宗教活動一本で歩み出されてから3カ月後の、昭和7年10月以降である。奥付に記載された発行日は、10篇のうち7篇には「昭和7年10月3日」と印刷されているから、先生が退職後最初に取り組まれた出版が、このパンフレット7篇の発行だったと思われる。他の4篇のパンフレットの発行日は、同101125日と12月1日である。頒布価格については1冊5銭と8銭の2種類がある。パンフレットのページ表記を見ると、多くのものが1ページから始まっておらず、また「柱」と呼ばれるページ上端の部分に「生命の實相」と横書きに印刷された文字がある。これは、発行のコストを抑えるために『生命の實相』の紙型を流用したからだろう。このような様々な工夫によって値段を極限まで下げたことで、パンフレットは多部数が頒布されていくのである。
 
 谷口 雅宣

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またしても、『生長の家叢書』において総裁が書いている。だが何故こんなことが問題になるかというと、歴史を封印した当事者であるからである。勿論総裁自身そんなつもりは無いのかも知れないが、今回の聖経についての記載は随分間違いが多いことを指摘した。

私のブログをみているのかどうかしりませんが、総裁自身も少しわかりはじめているようであるが、勉強不足は歪めない。

さて総裁の今回のブログであるが

>前回の本欄で「生長の家叢書」というパンフレットについて触れたとき、私は「内容は皆、初版革表紙『生命の實相』の一部である」と書いた。これは間違いである可能性があるので、この部分から「初版革表紙」の5文字を削除した。「可能性がある」という言い方はいかにも中途半端だが、現在のところ検証が終わっておらず、確実なことが言えないのである。確実なのは、『生命の實相』の一部であるということで、不確かな点は、その『生命の實相』がいつ発行されたどの種類のものかということだ。
 
 私は当初、これら9篇のパンフレットと併行して製作された『生命の實相』は初版革表紙本1種類だと思っていたので、前掲のような表現をした。しかし『生長の家三拾年史』によると、『生命の實相』には四六判の黒布装の全集があって、これが昭和10年1月15日発行の第1巻を皮切りに、1215日発行の第12巻までが同年内に発行されたという。また、この同じ聖典には菊半截・聖書型の革表紙版全9巻という豪華版もあり、この中の<地の巻>は昭和1010月1日に発行されている。これに対して生長の家叢書第9篇の『生長の家の歌』は、奥付表記によると初版の発行が同7年10月3日になっているから、これらいずれの『生命の實相』の紙型も存在しない時期の発行である。だから、それを流用してパンフレットを出すことは不可能なはずだ。そんな理由で、初版革表紙本からパンフレット化されたと考えたのである。
 
 ところが、実際の『生長の家の歌』(私の手許にあるのは昭和1010月発行の第8版)を見ると、初版革表紙本の紙型から製作することはほぼ不可能な編集になっている。そこで、初期に発行された他の『生命の實相』を調べてみると、革表紙版の全集の<火の巻>の冒頭が「聖詩篇」になっていて、それとパンフレットが組体裁から内容、ページの振り方まで全く同一であることが分かった。だから、第8版の『生長の家の歌』は革表紙版『生命の實相』<火の巻>などの紙型から作られたと考えられる。ところが、さらなる問題があった。この<火の巻>は、奥付表記では「昭和11年2月25日発行」なのである。ということは、『生長の家の歌』の発行日より4年遅れて出版されたことになり、タイムマシンを使わなければ不可能なことだ。
 
 こうして私は今、「聖経 甘露の法雨」がパンフレットの一部として初めて発行された時の、その元となった『生命の實相』を特定できないでいる。パンフレット『生長の家の歌』の初版本が手に入れば、このパズルを解く鍵が見つかると期待しているが、今となっては、それは"かなわぬ夢"なのかもしれない。

 谷口 雅宣<


なぜこんな初期的な疑問がわからないかというと、今回の新聖経の意図が見え隠れするからである。神様はそんなことは赦さない。自己価値の判断での聖経は罪があまりにも大きい。

さて、今回の間違いはどこかであるかであります。まずは『生長の家の歌』が発行されたのは5銭本であるが、昭和7年8月には既に発行されていたのです。

というのは『生長の家の歌』だけが当初売れなかったと雅春先生もお書きのとおりで、叢書という形体はこの時期以前にはすでに発刊されていたと考えるのが順当である。

だが、一番問題なのが叢書として販売されたのと、バラ売りとして販売されたのとほぼ同じ小冊子もあることである。

ただ、バラ売りにしても生長の家叢書何巻という記載はある。勿論。単独で『生命の實相』

以外にも販売されている。たとえば『生長の家経済連盟の提唱』などは『生命の實相』にはない。

単独で叢書の一部として販売されています。

>また、この同じ聖典には菊半截・聖書型の革表紙版全9巻という豪華版もあり、この中の<地の巻>は昭和1010月1日に発行されている。<

上記を読んでどの『生命の實相』かはわからない。私はすぐにわかるが、99%の信徒は何の『生命の實相』か判断出来ません。正確な記載を総裁にはお願いしたい。下記が正式名の『生命の實相』である。菊半截・聖書型という言い方です。菊半截というのは当時の判の大きさを示しています。



『生命の實相』(縮刷要典版第一巻)
『久遠の実在』(縮刷要典版第二巻)
『生命の実相』黒布表紙版 全20
『生命の実相』戦時廉価版十五巻
『生命の実相』革表紙版(総黒革版・3方金)縮刷豪華版 地の巻・水の巻・火の巻・教の巻・空の巻・行の巻・信の巻・證の巻・風の巻
『生命の実相』豪華大聖典
『生命の実相』大聖典(縮刷中聖典)
『生命の実相』事変版ビロ-ド表紙版・人造羊皮版
『生命の実相』本菊判装『生命の實相』
『生命の實相』満州版
『生命の實相』携帯版叢書 (聖経附)
戦後版 新修普及版『生命の実相』20
戦後版 新修特製版(見返装丁『生命の実相』20
『生命の實相』戦後版豪華革表紙 地の巻
『生命の實相』戦後版豪華革表紙 水の巻
『生命の實相』布装携帯版 (全40巻)
『生命の實相』豪華版 (全20巻)(見返装丁)
『生命の實相』頭注版 (全40巻)
『生命の實相』豪華携帯版 新装携帯版(全40巻)
『生命の實相』愛蔵版(全20巻)
『生命の實相』復刻版
『久遠の実在』復刻版                     『新編 生命の實相』(全65巻発刊予定)

下記が誤りを認めた文章です。少し素直ではないですが。それでも誤りを認めたことを評価します。

2012
710 ()
聖経について (10)
 前回の本欄を読んだ読者から、貴重なご意見をいただいた。私の推理が間違っているというのだ。もっと色々な資料に当たって総合的に考えねば歴史的事実の検証はできない--そういう意味のお叱りをいただいた。が、だからといって、その読者は私の疑問を晴らす“答え”をもっているのでもなさそうだ。しかし、率直なご意見には感謝申し上げる。
 
 その読者の指摘は、私が谷口雅春先生の『明窓淨机 草創篇』(1979年、日本教文社刊)を読んでいないということだった。全く読まなかったわけではないが、注意が足りなかった。その点は弁解の余地がない。そこでさらに同書を含めて調査を進めた結果、分かってきたことを少し書こう。ただし断定的な言い方はしないので、読者も私の推測を事実だと思わないでいただきたい。何しろ80年以上も前のことで、資料は多く残っていないのだ。
 
 まず最初に確認しておきたいのは、本シリーズの目的である。それは、生長の家の発祥後数年の歴史的事実すべてを検証することではない。そうではなく、あくまでも今日「聖経」と呼ばれているものの成立過程を明らかにしたいのである。歴史的事実の検証はもちろん重要であり、私も現にそれを本欄で進めているが、それはあくまでも本シリーズの目的に資する範囲内に留めたい。そうしなければ、日常の私の他の業務に支障が出るからである。私がなぜ聖経の成立過程に興味があるかといえば、それが生長の家の公式の記録書--いわゆる『
○○年史』--に詳しく書かれていないからである。この重要な経典についてさらによく知ることは、本欄読者にとっても有益なことだと私は信ずる。
 
 さて、その読者の指摘を端的に表現すれば、「生長の家叢書」というパンフレットの出版は、私が推測した「昭和7年10月」より前に行われているのであり、そのことは前掲の『明窓淨机』にちゃんと書いてある--ということである。その通りだった。ただし、本シリーズの焦点である聖経を収めた『生長の家の歌』(同叢書第9篇)については何も書いてない。書いてあるのは、『生きとほし』と『生命の神秘』という2冊の5銭パンフレットと、同叢書第2篇『光の新生活へ』、第7篇『無限生命の泉』、第6篇『いのちのゆには』のことで、これらはそれぞれ昭和6年10月、同年12月、同年同月、同7年1月、同年5月が推定発行月である。このうち先頭から2冊は、本シリーズ第8回で示した生長の家叢書のタイトル一覧の中にはないものだ。題名から推測して『人間生通しの話』と『こころ我を生かす』のことかもしれないが、現物を見ることができないので、確かなことは何も言えない。また、なぜ発行日の前に「推定」の2文字を入れたかといえば、前掲の『明窓淨机』には表記の月の翌月号の『生長の家』誌に発行の告知が載っているものの、私の手許にある現物(第2,7,6篇)では、奥付の表記が違うからである。
 
 この矛盾をどう考えるかについて、私に忠告を下さった読者は見事な回答をされている--生長の家叢書はバラ売りが先行し、10篇組のセット物が後から出来たと考えるべきだろうというのである。恐らく、そういうことになるのだろう。すると、セット物の分は奥付が昭和7年10月であっても、それより前にバラ売りが出ている場合、その分の奥付は同年9月以前になるはずである。理論的には、そうだ。しかし、私はまだその現物に出会ったことはない。そして、『生長の家の歌』のパンフレットについては、バラ売りのものがあったとしても、それがいつから行われたかは依然として不明である。
 
 現在の私の関心は、こういうことだ--聖経読誦をしようとする際、コピー機が存在しない草創期の誌友の人たちは、どうやってそれをしたのだろう? パンフレット発行後はその中の聖経を読めばいいのだが、それより前はどうしたのか? 雅春先生が「甘露の法雨」を「聖経」として公表されたのは昭和7年1月だから、それから10カ月の間のことである。

 谷口 雅宣