『生長の家教義研修会』で全員の挨拶で

『この一年間、生長の家の歴史を勉強していました、その中で『神の国寮』の手記がけいさいされていました』

私はそういう簡単な挨拶をしました。

その言葉に安東先生が

「どんな本と内容を教えてほしい」

ということで昨日所持させていただいた。

現在はそういう歴史的なものが残っていなかったりする。このブログでは昨年に掲載させていただきましたが、再掲致します。

 

戦災孤児という言葉もすっかり無くなったような気がしますが、しかし現在でもそうした中でしっかりと生きておられる方は沢山おられます。

 

生長の家は戦後いち早く、「生長の家社会事業団の設立」を昭和20年11月号の復刊第一号でよびかけられました。その対策は十項目ありました。

そのなかで

5、戦災その他の事情による父母なき幼児の保育園及び一般幼稚園の経営

 

その当時の様子を孤児の文集として残っています。

 

生長の家社会事業団

神の国寮

 

『戦災孤児の綴方集』父母を慕いて

       ―すすり泣く子ら―  から抜粋

 

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ありがたいお母さま

 

               黒田利子(当時14歳)

 私は、生長の家にくるまえは、お母さんのありがたさがわかりませんでした。

 生長の家にきてねどこにはいりますと、お母さんのことが頭の中にうかんできて、

 いつまでも、いつまでもねら  れませんでした。

 

 

 そのとき、私は、お母さんのことがわかりました。

 

 これからはけっして、お母さんをそまつにはいたしません。

 また生長の家には、お母さんもきょうだいもない子がいますから、

 私は、しあわせだとおもいました。

 私は、きっと、お母さんにおんがえしをいたします。

 

 家庭科の勉強をして、お母さんが、おねえさんのようふくをぬえるようにいたします。

 それまでおまちください。

 

(詩)お母さん

 

        杉山正明(当時12歳)

 

 

お母さん、お母さん。ぼくには、隠せない、

 

やさしいお母さん。

 

ぼくにとっては寳ものだ。

 

光のように神さまのようにやさしい、

 

清らかな心。

 

その心は、ぼくらには、わからない。

 

あたたかい胸にだかれ、

 

おっぱいをのんだ、小さい日よ。

 

いまはもうこんなに大きくなって、

 

歩ける、走れる。

 

山より高いご恩、

 

ぼくはけっして、忘れないぞ。

 

ぼくははやく、大きくなりたい、

 

えらくなりたい。

 

大きな、ぼくの家に、りっぱな自動車で

 

ぼくは、お母さんをむかえるのだ。