忠義の精神を産経新聞では「楠木正成考」として連載をしている。

東京だけではなく、大阪に住んでいても、そうした「楠木正成」を考えることもなく「忠義」といえば戦前の思想という短絡的な思考が根底にある。

 

また、時代によりその「楠木正成」という人物評価も分かれる。室町時代では「裏切者」とされていた、それが一変するのが「水戸光圀」である。

 

「水戸黄門」として知られる徳川光圀は、若い頃に『史記』伯夷伝を読んで衝撃的な感銘を受け、人の心をうつのは史書しかないと思い、日本の史書編纂を志す。1657年(明暦3年)、江戸駒籠(駒込)の藩邸に史書編纂所(のちの彰考館)を設置し、『大日本史』の編纂に着手した。儒学に基づく尊皇思想と史書編纂の考証を通して、室町幕府が擁立した北朝ではなく、吉野などを拠点とした南朝を皇統の正統とする史論に至った。当然それは南朝側武将への顕彰に繋がり、『太平記』によって英雄化された楠木正成はその一番の忠臣として挙げられた。

 

こうして、光圀は楠木正成の顕彰のための建碑を思いついたのである。

 

この墓碑創建には、立案者であり、出資者である光圀のほかに、重要な役割を果たす2人の人物がいる。一人は光圀の家臣、広く「助さん」として知られる佐々介三郎宗淳であり、もう一人は廣嚴寺の僧侶の千巖である。光圀の墓碑建立は実はこの2人の出会いにより、実現への運びをみるのである。

 

佐々宗淳(佐々十竹)は、もと京都妙心寺の僧侶で還俗したのち、延宝年間(1673 - 1681年)に史臣として水戸藩に仕えることとなった。佐々宗淳は楠木正成墓碑建立の実務を総括することとなる。

 

私は以前に「楠木正成」の生誕地である千早赤阪村に行って驚いたことがある。それは千早赤阪郷土資料館で「楠木正成」は英雄以外に何者でもない。そうした土壌が生み出した英雄というのが「楠木正成」である。近くに「生誕地」もあり、その隣の市である河内長野では観心寺がある。この観心寺には楠木正成の首塚があるが、その楠木正成は大楠公として崇められている。大阪や神戸では「楠公さん」として親しみを込めて呼んでいる。

また四条畷では「楠木正行」を小楠公と呼んでいる。

親子の決別の地である「櫻井」では小さな公園となっているが、それほど関心もないように思う。戦前は阪急電車の京都線の水無瀬駅は開業時は「櫻井の駅」駅と駅が二つつく駅名であった。昭和14年の年は櫻井の駅に参拝する人も随分多かった。

 

その所在地である島本町の市章は菊水を島本を図案に考えられている。


島本市章

 

 

湊川神社は皆様御存知の「湊川の戦い」で自害した地であります。

その名を残すように「多門通」として楠木正成(幼少名 多門丸)から付けられている。

 

下記に【 あの人の人生を知ろう ~ 楠木 正成 】 から抜粋させていただきます。

 

 

 

南北朝時代の武将。大阪・千早赤阪村の山里に生まれ、金剛山一帯を本拠地とする。幼名多聞丸。

 鎌倉時代末期、元寇から半世紀が経ち、幕府にはもう与える恩賞がなく権威が失墜していた。執権の北条高時は政治への興味をなくし遊興三昧の日々。民は重税に苦しみ、世の秩序は乱れた。1331年、幕府打倒を目指して後醍醐天皇が京都で挙兵。しかし、幕府軍の巨大な軍事力に恐れをなして倒幕勢力に加わる者は少なかった。焦る後醍醐天皇。この時、駆けつけた数少ない武将の中に当時37歳の楠木正成の姿があった。

 

 正成の前半生は不明だが、楠木一族は地元特産の水銀を売って経済的に力を蓄えた新興の土豪(地方豪族)。河内地方の商業や輸送の利権をめぐって、これを独占しようとする幕府側と対立関係にあった。天皇に謁見して戦への意見を求められた正成は「武芸に勝る関東武士に正攻法で挑んでも勝ち目はありませんが、知謀を尽くし策略をめぐらせば勝機もあるでしょう」と答えた。この言葉は後の戦いで証明されていく。

 

 地元に戻った正成は山中に築いた山城・赤坂城を拠点に挙兵する。“挙兵”といっても正成の兵力はわずかに500。これに対して幕府は数万の討伐軍を差し向けた。甲冑(かっちゅう)を着て武装した幕府軍に対し、正成軍の大半は普段農民の地侍であり、兜もなく上半身が裸の者もいた。粗末な山城を見た幕府軍の武将からは「こんな急ごしらえの城など片手に乗せて放り投げてしまえるではないか。せめて1日でも持ちこたえてくれねば恩賞に預かれぬぞ」と声が聞こえた。

 油断した幕府兵は各自が勝手に攻撃を始め、城の斜面を昇り始める。ところが、兵が斜面を埋めた瞬間に突然城の外壁が崩れ(二重の塀だった!)、幕府兵の頭上にドデカい岩や大木が地響きをあげて転がってきた!1対1で戦うことを名誉とする鎌倉武士と異なり、武勲にこだわらない地侍たちは集団での奇襲を得意とし、この初戦だけで幕府側は700名も兵を失った。藁人形であざむく、熱湯をかけるなど奇策に翻弄された幕府軍は力押しをやめ、城を包囲して持久戦に持ち込んだ(この時、幕府軍の中には足利尊氏もいた。彼は「正成という男は只者ではない」と感心したという)。

 兵糧攻めの結果、正成軍は20日で食糧が尽き、そこへ京都で後醍醐天皇が捕らえられたと急報が入った(天皇は隠岐島に配流された)。正成は城に火を放ち、火災の混乱に乗じて抜け道から脱出、行方をくらます。

※この時、幕府側の武将の誰もが、“正成は武士の伝統に従って炎の中で自刃した”と考え、「敵ながら立派な最期だった」と言い合ったという。このような従来の価値観で動かず、舌を出してサクッと逃げているところが、型に収まらない正成の正成たる由縁だろう。

 

 1332年(38歳)、赤坂城の攻防戦から1年が経った頃、再挙兵の仕込みを完璧に仕上た正成が姿を現す。彼は河内や和泉の守護(幕府の軍事機関)を次々攻略し、摂津の天王寺を占拠、京を睨む。これに対し北条氏は幕府最強の先鋭部隊を差し向けた。正成側には敵の4倍の兵が終結しており、臣下は「一気に踏み潰しましょう」と主張したが、正成は「良将は戦わずして勝つ」と提案を退け、謎の撤退をする。幕府のエリート部隊はもぬけの殻になった天王寺をなんなく占領。ところが夜になると、天王寺は何万という“かがり火”に包囲され、兵士達は緊張で一睡も出来ないまま朝を迎える。しかし夜が明けても正成軍に動く気配はない。次の夜になると再び無数のかがり火が周囲を包囲した。「いつになれば正成の大軍は総攻撃を始めるのか…」4日目、精神的&肉体的に疲労の極致に達した幕府兵は、ついに天王寺から撤退した。実は、このかがり火は「幻の大軍」で、正成が近隣の農民5000人に協力してもらい、火を焚いたものだった。正成軍は一人の戦死者を出すこともなく勝利する。

 

 1333年2月(39歳)、幕府は目の上のコブ、正成の息の根を止めるべく、8万騎の大征伐軍を追討に向かわせる。正成は千人の兵と共に山奥の千早城に篭城した。幕府軍は大軍でこれを包囲したものの、正成の奇策を警戒するあまり近づくことが出来ない。結局、2年前の赤坂城と同様に兵糧攻めを選んだ。ところが、今回は勝手が違った。なまじ8万も兵がいる為に、先に餓えたのが包囲している幕府兵だったのだ。正成の作戦は、目の前の大軍と戦わずに、その補給部隊を近隣の農民達と連携して叩き、敵の食糧を断つという、「千早城そのものが囮(おとり)」という前代未聞のものだった。山中で飢餓に陥った幕府兵に対し、抜け道から城内へどんどん食糧が運び込まれていた正成軍は、3ヶ月が経ってもピンピンしていた。やがて幕府軍からは数百人単位で撤退する部隊が続出し、戦線は総崩れになった。

 

 8万の幕府軍がたった千人の正成軍に敗北した事実は、すぐに諸国へと伝わった。「幕府軍、恐れるに足らず」これまで幕府の軍事力を恐れて従っていた各地の豪族が次々と蜂起し始め、ついには幕府内部からも、足利尊氏、新田義貞など反旗を翻す者が出てきた。尊氏は京都の幕府軍を倒し、義貞は鎌倉に攻め入って北条高時を討ち取る。正成が庶民の力で千早城を守り抜いたことが、最終的には140年続いた鎌倉幕府を滅亡させたのだ。6月、正成は隠岐へ後醍醐天皇を迎えにあがり、都への凱旋の先陣を務めた。

 

※赤坂城、千早城の合戦の後日、正成は敵・味方双方の戦死者を区別なく弔う為に、「寄手(よせて、攻撃側)」「身方(味方)」の供養塔(五輪塔)を建立し、高僧を招いて法要を行なった。敵という文字を使わずに「寄手」としたり、寄手塚の方が身方塚よりひとまわり大きいなど、残忍非情な戦国武将が多い中で、人格者としての正成の存在は際立っている。誠実な人柄が垣間見える感動的な供養塔だ(現在も千早赤阪村営の墓地に残っている)。

 

1334年(40歳)、後醍醐天皇は朝廷政治を復活させ、建武の新政をスタート。正成は土豪出身でありながら、河内・和泉の守護に任命されるという異例の出世を果たす。後醍醐天皇は天皇主導の下で戦のない世の中を築こうとしたが、理想の政治を行なう為には強権が必要と考え独裁を推し進める。まずは鎌倉時代に強くなりすぎた武家勢力を削ぐ必要があると考え、恩賞の比重を公家に高く置き、武士は低くした。また、早急に財政基盤を強固にする必要があるとして、庶民に対しては鎌倉幕府よりも重い年貢や労役を課した。

 朝廷の力を回復する為とはいえ、こうした性急な改革は諸国の武士の反発を呼び、133511月、尊氏が武家政権復活をうたって鎌倉で挙兵する。

 京へ攻め上った尊氏軍を、楠木正成、新田義貞、北畠顕家ら天皇方の武将が迎え撃った。尊氏軍は大敗を期し、九州へと敗走する。

 

 正成はこの勝利を単純に祝えなかった。逃げていく尊氏軍に、天皇方から多くの武士が加わっていく光景を見たからだ。「自軍の武士までが、ここまで尊氏を慕っている…!」。新政権から人々の心が離反した現実を痛感した正成は、戦場から戻ると朝廷に向かい、後醍醐天皇に対して「どうか尊氏と和睦して下さい」と涙ながらに進言する。ところが、公家達は「なぜ勝利した我らが尊氏めに和睦を求めねばならぬのか。不思議なことを申すものよ」と正成を嘲笑する始末…。

 

1336年4月末、九州で多くの武士、民衆の支持を得た尊氏が大軍を率いて北上を開始。後醍醐天皇は「湊川(みなとがわ、神戸)で新田軍と合流し尊氏を討伐せよ」と正成に命じる。“討伐”といっても、今や尊氏側の方が大軍勢。正面からぶつかっては勝てない。策略が必要だ。正成は提案する「私は河内に帰って兵を集め淀の河口を塞ぎ敵の水軍を足留めしますゆえ、帝は比叡山に移って頂き、京の都に尊氏軍を誘い込んだ後に、北から新田軍、南から我が軍が敵を挟み撃ちすれば勝利できましょう」。しかしこの案は「帝が都から離れると朝廷の権威が落ちる」という公家たちの意見で却下された。彼が得意とした山中での奇策も「帝の軍の権威が…」で不採用。

 失意の中、正成は湊川に向かって出陣する。天皇の求心力は無きに等しかった。尊氏軍3万5千に対し、正成軍はたったの700。戦力差は何と50倍!正成は決戦前に遺書とも思える手紙を後醍醐天皇に書く。「この戦いで我が軍は間違いなく敗れるでしょう。かつて幕府軍と戦った時は多くの地侍が集まりました。民の心は天皇と通じていたのです。しかしこの度は、一族、地侍、誰もこの正成に従いません。正成、存命無益なり」。彼はこの書状を受け取った天皇が、目を開いて現実を直視するように心から祈った。

 

 5月25日、湊川で両軍は激突。海岸に陣をひいた新田軍は海と陸から挟まれ総崩れになり、正成に合流できなかったばかりか、足利軍に加わる兵までいた。戦力の差は歴然としており即座に勝敗がつくと思われたが、尊氏は正成軍に対し戦力を小出しにするだけで、なかなか総攻撃に移らなかった。今でこそ両者は戦っているが、3年前は北条氏打倒を誓って奮戦した同志。尊氏は何とかして正成の命を助けたいと思い、彼が降伏するのを待っていた。しかし、正成軍は鬼気迫る突撃を繰り返し、このままでは自軍の損失も増える一方。尊氏はついに一斉攻撃を命じた。6時間後、正成は生き残った72名の部下と民家へ入ると、死出の念仏を唱えて家屋に火を放ち全員が自刃した。正成は弟・正季(まさすえ)と短刀を持って向かい合い、互いに相手の腹を刺していたという。享年42歳。

 正成の首は一時京都六条河原に晒されたが、死を惜しんだ尊氏の特別の配慮で、彼の首は故郷の親族へ丁重に送り届けられた。尊氏側の記録(『梅松論』)は、敵将・正成の死をこう記している「誠に賢才武略の勇士とはこの様な者を申すべきと、敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける」。

 

 

尊氏の没後、室町幕府が北朝の正当性を強調する中、足利軍と戦った正成を『逆賊』として扱ったため、彼は死後300年近く汚名を着せられていた。たとえ胸中で正成の人徳に共鳴していても、朝廷政治より武士による支配の優秀さを説く武家社会の中で、後醍醐天皇の為に殉じた正成を礼賛することはタブーだった。

 正成の終焉の地・湊川にある墓は、もとは畑の中の小さな塚で荒廃していたのを、1692年に“水戸黄門”徳川光圀が自筆で「嗚呼忠臣楠子之墓」と記した墓石を建立、整備した(墓碑銘に「嗚呼」とあるのは正成だけと思う。ちなみに工事の監督を指揮したのは“助さん”こと佐々介三郎)。光圀は「逆賊であろうと主君に忠誠を捧げた人間の鑑であり、全ての武士は正成の精神を見習うべし」と正成の名誉回復に努めた。墓の傍らには水戸光圀像がある。

 正成の墓碑は大きな亀の背に乗っている儒教式だ。古来から中国では、死後の魂が霊峰・崑崙山(こんろんさん)に鎮まることが理想とされている。亀はこの山に運んでくれる聖なる生き物とされており、こうした墓の形になった。

 

 室町時代の軍記物語『太平記』には、正成について「智・仁・勇の三徳を備え、命をかけて善道を守るは古より今に至るまで正成ほどの者は未だいない」と刻んでいる。

 

※正成が子と別れた史蹟桜井駅跡(大阪)の石碑「楠公父子訣別之所」の字は乃木将軍が書いたもの。

※正成の故郷、大阪・河内長野の観心寺の境内には彼の首塚がある。法名は霊光寺大圓義龍卍堂。

※正成討死の半年後、後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝を開く。翌1337年、新田義貞が敗死。1339年には後醍醐天皇も他界する。正成の死の12年後(1348年)、息子の楠木正行(まさつら、22歳)は南朝方の武将として父の弔い合戦に挑んで破れ、父の最期と同様に、弟の正時と互いに刺し違えて自害した。