211日 神武天皇橿原の宮に行ってきました。午後3時頃でしたので朝の騒然とした雰囲気とは違って、橿原の宮はなんだか閑散としていた。

どうして朝が騒然としていたのがわかったかというと、実はこの日は橿原神宮の北側にある近鉄大和八木駅をスタ-トして目標として大和三山を巡り、神武天皇、綏靖天皇、安寧天皇、懿徳天皇の御陵天皇の参拝してから、橿原の宮に参拝した。

 

その大和八木駅から軍歌が聞え、紀元節の歌が聞こえたからである。距離が離れているにもかかわらず、遠くまであの街宣カ-から流れる音が聞こえたからであります。

 

さて、今回は畝傍という地に畝火山口神社がありますが、畝傍と畝火とどうして字が異なるのか、また、耳成山口神社が山頂ちかくにあり、畝傍山は裾野に畝火山口神社があります。

畝火山口神社も頂上に設営されていたのが、橿原神宮を眼下に見下ろすのはよくないということで、裾野へ移動したのです。

 

また、香久山(天香久山)には山口神社がありません。裾野には天香久山神社があります。

その不思議と私の考えも併せて考証していきたい。

 

 大和三山の天香久山だけは別格であったことがわかります。それは香久山とも呼んでいたのですが、その上に「天」を付けている。それは神聖な意味が含むと考えてもいいと思います。まずは持統天皇の

 

    春すぎて 夏来(き)にけらし 白妙(しろたへ)の 

    衣(ころも)ほすてふ 天(あま)の香具山(かぐやま)

 

           持統天皇(2番) 『新古今集』

 

万葉集の最初に出てくるのが下記の詩です。

 

大和には 群山あれど

 とりよろふ 天の香具山

 登り立ち 国見をすれば

国原は 煙けぶり立ち立つ

海原は 鴎立ち立つ

 うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は

 

どうしてこの歌では天の香久山としているのか。

 

そこを詳しく詳述しているのが『釋日本記』の「伊豫國風土記」には

 

伊予の郡。郡家より東北のかたに天山(あめやま)あり。天山と名づくる由は、倭(やまと)に天加具山あり。天より天降(あも)りし時、二つに分れて、片端(かたはし)は倭の国に天降(あまくだ)り、片端は此の土(くに)に天降りき。因りて天山と謂ふ、本(このもと)なり。

伊予天山というのは実際にあります。

 

この昔の天加具山から気が付くのが火之迦具土神と同じ字を書いていることです。つかり迦具とは「輝く」という語源と同じであるから、光輝く山として、信仰の対象としての神々しい山として昔は捉えられたのではないかと思っています。

 

また、当日は天香久山神社と天岩戸神社(天照大神)にも参拝してきました。この山腹にはそれ以外に伊弉諾命と伊弉冊命祀る上の御前と下の御前がある。

 

中大兄皇子の歌

「香具山は 畝傍ををしと 耳梨と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 妻をあらそふらしき」 (1-13)原文「高山波雲根火雄男志等耳梨與相諍競伎神代従如此尓有良之古昔母然尓有許曽虚蝉毛嬬乎相挌良思吉」

 

大伴旅人の歌

「わすれ草 わが紐に付く 香具山の 故(ふ)りにし里を 忘れむがため」 (3-334)

 

作者不詳

「いにしへの 事は知らぬを われ見ても 久しくなりぬ 天の香具山」 (7-1096)

 

 

柿本人麻呂の歌

「久方の 天の香具山 このゆふべ 霞たなびく 春立つらしも」 (10-1812)

 

さて書きたいことも沢山ありますが、当日(211日)は橿原神宮参拝後に孝元天皇陵の参拝と素戔嗚命神社と植山古墳と丸山古墳と行ってきました。植山古墳は初めてで当日は舗装工事をしていました。ただ、古代の古墳というイメ-ジはなくなり単なる公園となっているのが残念であります。いろいろと私も古墳を巡っていますが、どれも同じように古墳を坊主山にして公園にするのである。どうせこんな公園にしても維持費が嵩み、荒れ果てるだけである。神性聖など感じないのが教育委員会の役員の感じる浅はかな知恵であろう。

ただ、植山古墳は近くの見瀬丸山古墳以上の大きな古墳であったことがわかります。前方後円墳の二つの古墳は巨大で竹田皇子の墓とされている。

 

また、見瀬丸山古墳は出土内容からしても舒明天皇の墓ともされている。また持統天皇とか欽明天皇陵とか、言われているがその真意はわからない。ただ大きさは古墳では全国第六番目の大きさですから驚きます。また内部の一部が盗掘され、その多くが大英博物館にそれがあります。国際条約からしてみると完全な盗掘の品物であり、盗掘した人物はウィリアム・ゴ-ランドであります。