生長の家教団というのは「嘘を平気でつく集団」であることは私のこのブログで発言してきた。

だから、少しぐらいの「嘘」は容認する(これも本心はダメ)が、どうしてこんなことが生ずるかというと、歴史を隠蔽したのが大きな要因である。

 

谷口雅春先生の御著書が発刊されない、新刊もダメである。そうした、文書伝道で立教から存続してきた宗教が何の理由もなしに文書伝道が出来なくなった。出来なくなるというより、無理やりに、ごり押しにその方向へもっていった。

 

人間には「どうしょうもない」人間がいることが「総裁」自ら観音菩薩となって知らしてくれたのはいいのだが、そのどうしょうもないことを「どうにかする」という姿勢が幹部にはない。いわゆる、骨抜きに精神も身体もされたのだ。

 

「天皇観」だけは変えないで欲しいと思うが、それも怪しい。どれほどの天皇信仰に忠誠があるのかも疑問である。

 

私は生長の家に若くして入信したが、天皇信仰だけはどうしても分からなかった。言葉ではいくらでも書くことができるが、その根本にある「中(みなか)の精神」といわれても、それを把握する術を知らなかった。

 

天皇陛下に関する本を片っ端から読み漁り、天皇陛下に興味あることは率先として行った。だが、高校時代に修学旅行でバス乗車中に「昭和天皇」のお召車が対向車線とのすれ違いで多くの友人が感動していた。あの雰囲気の再現とはなにか?

 

天皇陛下の歴史を探るのも一つの方法ではないかと感じている、「天皇陛下の御製」は今ではほとんど詠われない。

しかし、それでも歴史を勉学して欲しい。そのなかから、日本の素晴らしさを語る人となってほしい。

 

西行法師の歌に

 

今宵こそ 思ひ知らるれ 浅からぬ 君に契りの ある身なりけり 

 

鳥羽上皇の葬送に参列してこの歌を詠った。

高野山で修行していたが、鳥羽上皇の訃報を聞き、駆け参じている。

 

また崇德院の讃岐への配流はどれほど西行法師は辛かったのであろう

 

松山の 波に流れて 来し舟の やがて空しく なりにけるかな

 

松山の 波の景色は 変らじを かたなく君は なりましにけり

 

よしや君 昔の玉の ゆかとても かからん後は 何にかはせん

崇德院を思い、墓前で詠っている。

 

西行法師は武士を捨て、出家する道を選択した、それでも

身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ

 

また仏道後は

 

世の中を 背く便りや なからまし 憂き折節に 君逢はずして

 

崇德院は小倉百人一首に

瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ

 

山家集より

最上川 つなでひくとも いな舟の しばしがほどは いかりおろさむ

(崇德院)

 

つよくひく 綱手と見せよ もがみ川 その稲舟の いかりをさめて(反歌)(西行法師)