生長の家と私

私が「生長の家」という宗教を家で行っているのだなということを気が付いたのが小学校3年生の頃でした。

悪ガキの私が家中、走り回っていた時に裁縫道具の待ち針の針山に足を踏んずけてしまった。待ち針だけではなく、普通の針も沢山あったので「グサッ」と刺さったのです。

小さな私でも其れほど痛みがなく、十数本足の裏に刺さった針を抜いていくんです。母が心配して吹田済生会病院に連れて行ってくれたことを憶えています。

レントゲン撮影も初めてですから興味津々でそれを覗いたら、写真には糸のような跡が残っていたのを記憶しています。その時に聖経『甘露の法雨』をしきりに称えていた。

 

 小さい頃の吹田の生長の家は大きな一家のような所でした。千里山の岡田先生は関西大学の世話などしていたので、今でもその当時の学生から名前が出てきます。

当時の吹田の生長の家は水野氏、篠田氏や安川氏、井伊氏、白長氏、小森氏、村上氏等沢山の白鳩会や相愛会など吹田道場(片村四八氏邸)での集まりは沢山の人々を喜びの輪としました。

生長の家の吹田市の発足は昭和9年(『社会運動の状況』より)に吹田市の朝日ビ-ル会長重役の松村蔚(さかえ)邸で開かれていた。生命の實相輪読会を中心に行われていた。(生長の家大阪教区五十年史より)

 

終戦後は満州から引き揚げの篠田氏が熱心に活動されていたことを思い出す。篠田氏は食堂を経営されておられ、場所もJR吹田駅の近くにあり、私も何度かお会いさせていただいたが、気楽な人であることが印象的であった。

吹田は大規模な光明化運動が率先されて灯火されていたことを先達に何度か聞いていました。昭和26年には吹田市立第一小学校で谷口雅春先生の大講習会が開催されています。

やはり、それが吹田の誇りであった、またそれが自慢であったような気がする。

 

常にそこには『生命の實相』があり、神誌があり、聖典があった。

当時の青年会の活動も盛んで沢山の誌友を集めていた。

 

そんななかでの私でしたが、小さい頃に「神童会」に参加していたことが印象的であった。幼稚園で毎月開催されていたのであるが、沢山の人が参加していたことを憶えています。

私の場合は無理やりでしたが、あまり行くのも嫌だったことです。しかし兄弟も参加するので仕方ないので参加していた。

 

母は半ば強制的に参加させるのであるが、反対にそれが良かったのかもしれない。ただ、家族の状況というのがあったことを知っています。

 

私は兄弟が多くいます。兄弟は11人で13人家族です。

しかも、市営住宅に住んでいましたので部屋も狭いのです。私など押入れで寝ていました。父は普通の会社員です。食費や学費にどれほどの経費がかかるか、本当に大変だったと思いますが、母親はそういうことを一切いいません。お金が無いなどとかそんな愚痴など一切なかったが貧乏生活であったことは確かでした。

ただ、生活保護など受給するなどは拒否していましたので、高いプライドを持っていました。だから生長の家に行くのが恥ずかしかった。みんな綺麗な服を着て、来るのですがみすぼらしいカッコに辟易していた。

 

だから「生長の家」に行くのが嫌だったのです。

 

母親が生長の家を入信したのは母の姉が兵庫県加古川市に住んでいたのですが、立教当初からの熱心な信徒であった。その感化を受けて生長の家に入信するのですが、それまでは「金光教」に入信していた。それも大阪の天七(天神橋筋七丁目)で商売をしていたのでその時代からだと云っていました。この吹田に住むのは「疎開」が縁です。大阪市内は戦時中における焼夷爆弾などの凄まじさで疎開をせざるを得ません。

 

生長の家は母の熱心さは講師されている人をも上回る程のものです。常に生長の家の話をするのですが、それが誰であってもするのです。だから、家には常に人が集まる場所でした。